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憲法を聖典と心得る阿呆ども

WiLL 2015/7/12(日) 22:20配信

憲法に沿うか沿わないかの堂々巡り

 安保法制をめぐって、国会で神学論争が続いている。
「おっしゃることが、よくわからない」
「それでは答えになっていない」
 ラチもない質疑の繰り返しだ。詰まるところ、憲法に沿うか沿わないか、それをめぐって堂々巡り。いつ果てるともしれない。
 会期を延長したところで、議論は尽きない。結局は例によっての強行採決となろう。それが野党の狙いで、これまた例によって「多数の横暴だ」「立憲主義に反する史上稀に見る暴挙だ」などと言い立てて、「安倍独裁」を印象づける算段だ。
 この議論、大方の日本人にはわかるまい。いや、わかろうともしない。どうでもいい議論、所詮は野党のパフォーマンスと冷ややかに見ている。それもそのはず、この種の神学論争に日本人ほど無縁な民族も珍しい。
 古来、西欧や中東では、聖書やコーランの解釈をめぐって血みどろの抗争が続いてきた。聖典の解釈権を独占した者が、人間を内心から縛り上げるほどの権力を得る。実態は権力闘争で、それと知らない善男善女が踊らされて血みどろの抗争となる。ちなみに、英語で宗教を意味する religion の語源は、ラテン語の religio=「縛る」からくる。
 くらべて日本には聖典に当たるものがない。神道には教典もなければ教祖もいない。そんなものは要らないよ、と大方の日本人は思って暮らしてきた。よって聖典をめぐる抗争は起こりようがない。たまさか仏典の解釈権をめぐって宗派間の争いがあっても、大方の日本人はそれをヨソ目に知らんふりだ。
 目下の国会のラチもない論争は、憲法を聖典と心得るところからくる。かつて明治憲法は「不磨の大典」とされ、天皇は「現人神」で、その「御心」に沿うかどうかをめぐって権力闘争が展開され、挙げ句は「八月十五日の悲劇」に至った。明治憲法を策定した伊藤博文の曰く、
「西洋にはキリスト教なるものがあって、これが国の機軸をなすが、日本にはそれに相当するものがない。よって皇室をもって機軸とし、あえて西欧流の三権分立制を取らず」(帝国議会における説明)
「現人神」を擬制することによって、内に忠誠心を調達し、二百余州を束ねて外に対抗する。軍服を着た三代の天皇は、日本史上きわめてヘテロ(異質)な時代だが、これによって西力東漸をハネ返し、歴史家トインビーにいわせれば「アジアで羊のごとく毛を刈り取られることのなかった唯一の国」たり得た。

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最終更新:2015/7/12(日) 22:20

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