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夏目漱石、知人から赤ん坊の名づけを頼まれ大いに悩んだあげく…。

サライ.jp 6/8(水) 7:20配信

今から100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)6月8日の夜、俳人で中央出版協会の編集人である下山霜山(儀三郎)が東京・早稲田南町の漱石山房(漱石の自宅)を訪ねてきた。霜山は数日前に女児が生まれたばかりで、漱石にその名づけ親になってほしいというのだった。

わざわざ訪ねてきて依頼を受けると、無碍(むげ)に断るわけにも行かず、漱石は「考えてみましょう」という含みのある答えをし、客人と別れた。

漱石はその日一日、いろいろ苦慮した末に名前を決め、あくる日、手紙をしたためた。

《御依頼の御令嬢命名の儀は、小生の漱石の石をとり、いし子と致しました。自分の雅号などを人につけてやる事を私は甚(はなは)だ好まないのでありますが、昨日の御話を伺って見ると御断りを致すのが如何(いか)にも御気の毒でありますから、僣越(せんえつ)を忍んで御希望の如くに取計らいました。向後健全の御発育と立派なる御成長とは小生の切望する所であります》

漱石の身近では、高浜虚子の長男が正岡子規によって年尾(としお)と命名されたり、与謝野晶子の七番目と八番目に当たる双子の女児が、森鴎外から贈られた《聟(むこ)きませ ひとりは山の八峰(やつお)こえ ひとりは川の七瀬(ななせ)わたりて》という短歌によって、七瀬と八峰と名づけられたという例もあった。漱石も、ぜひにと頼まれればなんとかその期待に応えたかったのだろう。

付言しておくと、これより3年前にも、もうひとり、漱石によって名づけされた赤ん坊がいる。それは漱石の友人で画家の津田青楓の息子である。漱石はこの赤ん坊が生まれたのを知って、こんな手紙を書いた。

《あかん坊が生れたそうで御目出とう御座います。しかも男の子だそうで猶更(なおさら)結構です。名前はまだつかないですか。八月の三日に生れたから八三(はちぞう)は如何(いかが)です。安々と生れたから安丸〔ヤスクウまレル〕ではいけませんか。(略)高田老松町で生れたから高松ではおかしいですか。いずれも雑談半分な意味で馬鹿気ていますね。名前は実際つけにくいものです》(大正2年8月5日付)

文面にもある通り、この時の漱石は、命名を頼まれたわけでもなく、冗談まじりに思いついた名を列記してみたまでのことだった。ところが、津田青楓の方に、折角、漱石先生が考えてくれたのだからという思いがあり、この中から「安丸(やすまる)」を選んで、実際の名前とした。これには、きっと、漱石先生の方が、ちょっとびっくりしたのではないだろうか。

さて、「いし子」命名の手紙を送ってから2週間ほど後、漱石は妻の鏡子とも相談して、この赤ん坊のために夏着を贈った。他ならぬ鏡子自身が、手ずからミシンを使って縫い上げた夏着だった。名づけ親夫婦からのお祝いの気持ちであり、ひとつの記念にもなると考えてのプレゼントだった。

鏡子は料理が苦手な上に朝寝坊という、家庭の主婦としてはあまり自慢できない弱点を持っていたが、裁縫は滅法得意だったのである。

■今日の漱石「心の言葉」
名前も考えると難しきものに候えども、分りやすく間違いのなきような名をつければよろしく候(『書簡』明治34年1月24日より)

Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

最終更新:6/8(水) 7:20

サライ.jp

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