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夏目漱石、熊本で「三陸大津波」の大惨事を知り驚愕する。

サライ.jp 6/16(木) 7:10配信

今から120 年前の今日、すなわち明治29年(1896)6月16日、29歳の漱石は熊本で驚くべきニュースに接した。前夜、青森、岩手、宮城の東北3県へ地震による大津波が押し寄せる、いわゆる「三陸大津波」があったのである。

記録によれば、死者2万7千人余り、全壊家屋およそ2千500 、流出家屋1万600 余戸。先の東日本大震災にも重なる甚大な被害だった。

当時はテレビもラジオもなく、熊本にこのニュースが伝わったのは翌日のこと。漱石が英語教師として松山から熊本へ転任して2か月目、鏡子との結婚式からは7日目の出来事だった。

熊本の人たちは、このニュースを深い同情心とともに、身近なこととして受けとめた。というのも、この7年前の明治22年(1889)7月28日、熊本市一帯が強い地震(M6・3)に見舞われていた。死者20人、負傷74人、全半壊した家屋が400 戸余り。加藤清正築城の、堅牢を誇る熊本城の石垣も何か所か崩れた。熊本市民は皆、この記憶をまだなまなましく胸の中に刻んでいたのである。

漱石自身もつい2年前、まだ大学院生だった頃、東京で死者24名が出る大きな地震に遭遇したことがあり、地震の恐ろしさ、被害者に寄り添う気持ちは強く持っていた。

三陸大津波の報に接してからひと月半が経過した7月28日、漱石は大学時代からの友人でドイツ留学中の美学者・大塚保治への手紙に、こんなふうに記している。

《或(あるい)は御承知とは存(ぞんじ)候えども過日三陸地方へ大海嘯(おおつなみ)が推し寄せそれはそれは大騒動、山の裾(すそ)へ蒸気船が上って来る高い木の枝に海藻がかかるなどいう始末の上、人畜の死傷などは無数と申すくらい、実に恐れ入り》

当時、日本国内で起きた自然災害のニュースが、遠い欧州にまで、どのくらいの精度で伝わっていただろう。あるいは、ほとんど伝わっていないかもしれない。だから、漱石は改めて、東北の三陸地方で、地震によって引き起こされた大津波が陸地に押し寄せ、蒸気船は山裾まで運ばれ、高い木の枝に海にあった海草がひっかかるようなありさまで、多くの死傷者が出るなど甚大な被害があったことを報知している。

船が陸地の高いところに打ち上げられた光景や、東北と熊本が相次いで大きな地震におそわれている辺り、今日の日本の姿が二重写しに重なって見える。

漱石は、大塚保治への手紙の続きに、こうも綴った。

《義捐金(ぎえんきん)徴収の廻状がくるや否や、月俸百分の三を差出して微衷(びちゅう)をあらわしたという次第に御座候》

この頃の漱石の月俸は100 円。その3パーセントに当たる3円を義捐金として寄付したというのである。

「月俸百分の三」という書きぶりからして、この義捐金の拠出は学校を上げて教職員全体が協力したものだったろう。さらに1回のみでなく、一定期間続けて拠出される義援金だったとも想像される。まだ転任まもない時期で、自分が主導するような立場ではないものの、「くるや否や」「微衷(自分自身の真心)」と綴った辺りに、漱石の被災地支援への思いが覗く。

後年、鏡子夫人が、「同情心が強く、困っている人は放っておけなかった」と回想する漱石のやさしさが、ここでも静かに発揮されていた。

■今日の漱石「心の言葉」
自分一人ではとても生きていられない(『道楽と職業』より)

Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
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休館/月曜

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

最終更新:6/16(木) 7:10

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