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出雲の神はなぜ、祟るのか!!

BEST TIMES 6/20(月) 6:00配信

常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、日本人のルーツを探る異端の古代史シリーズ! (現在第7弾まで発売中)その中でも厳選したテーマを紹介いたします。

出雲国造が代々伝えてきた「神火」とは何か? 

 戦後長い間、神話は絵空事と考えられてきた。しかし、出雲の神々の「その後」と周囲の反応をみていると、「何かがおかしい」と思えてくる。というのも、出雲の神は、よく祟るからだ。

 そして、神話の中で勝った者たちの末裔が、出雲神の祟りに怯え続けている。出雲の国譲りが「創作」なら、自ら造り上げたお伽話の主人公に怯えきっていたことになる。
   普通、こんなことはあり得ない。
   出雲大社の本殿が巨大だったことも謎めく。
   平成十二年(二〇〇〇)四月、境内から巨大木柱・宇豆柱(うずばしら)が発掘され、さらに中心の心の御柱(しんのみはしら)も見つかった。
   直径は一二五~一四〇センチ。

 それを三本束ねてひとつの柱にし、計九本で本殿を支えていた。この奇妙な様式は、出雲国造家(いずもこくそうけ)に残された『金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず)』(ようするに設計図)に記録されていたのだが、「こんなものあるはずがない」と、相手にされていなかった。

 かつての社殿は「理由もなく倒れた」という言い伝えも無視されたままだった。
   現在の本殿の高さは八丈(二四メートル)で、中古は倍、さらに上古は、その倍(三十二丈、九六メートル!! )あったと伝えられていたが、伝承を笑殺することができなくなっている。

 柱の形状と大きさは、現在の社殿と釣り合っていない。タワーのための柱と考えるほかはない(柱のレプリカだけで、腰を抜かすほど)。倍の大きさとしても、現代人が想像できない巨大社殿が、出雲には屹立していたのだ。

 出雲大社創祀のきっかけが興味深い。出雲の国譲りの物語の最後の部分だ。『日本書紀』神代下第九段一書第二には、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が大己貴神(おおあなむちのかみ)(大国主神(おおくにぬしのかみ))に次のように言い渡したと記されている。

「この世の政事(まつりごと)は、これからは皇孫が治める。大己貴神は幽界の神事を司るように。おまえには天日隅宮(あめのひすみのみや)を造ってやろう」

 この場面、高皇産霊尊はやや高飛車な態度だが、『古事記』は別の説話で、「祟る出雲神が巨大な出雲大社建立の端緒だった」といっている。第十一代垂仁(すいにん)天皇の御子・本牟智和気(ほむちわけ)が、成人しても言葉を発することができなかった。垂仁天皇は心配されたが、夢に神が現れ、「私の宮を天皇の御舎(みあらか)のように整えれば、御子は言葉を発するだろう」というので、占ってみると、「その祟りは出雲大神の御心だ」とわかった。
  そこで本牟智和気を大神の宮に参拝させたとある。
  やはり、出雲の神は祟ったのだ。

 それが恐ろしかったからこそ、巨大な社殿を用意したことになる。恐ろしかったからこそ、それに比例して、社殿は大きくなっていったのだろう。

   出雲をめぐるもうひとつの謎は、出雲国造家と祖神の天穂日命(あめのほひのみこと)だ。神話の中で天穂日命は国譲りの工作員として天上界から送り込まれるが、出雲に同化してしまい復命しなかった。

 ところが国譲りののち、天穂日命の末裔が出雲の神を祀り、国造に任命されていく。天津神にとって天穂日命は裏切り者だ。それにもかかわらず、なぜ出雲の支配者に抜擢されたのだろう。そして、七世紀から八世紀にかけて律令制度が整って「国造」の制度は廃止されたにもかかわらず、今日に至るまで出雲にだけ「国造家」が残り、人びとの尊崇を集めているのは、不思議なことなのである。

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最終更新:6/20(月) 6:00

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