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朝日新聞若宮啓文氏を悼むその1 旅に病んで夢は・・・

Japan In-depth 6/21(火) 11:04配信

朝日新聞の主筆だった若宮啓文氏が亡くなった。

旅行先の北京のホテルでの病死だったという。旅先での孤独な死だったのだろう。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

芭蕉のこの句がふっとよぎった。ご本人にもご遺族にもなんとも寂しい旅立ちだったことだろう。

もう40年も前のベトナム戦争中、熱帯病に襲われ、現地で治療してくれた旧日本軍の軍医からこの句をつぶやかれた自分自身の不安を想起して、若宮氏の最期の心情を想った。

若宮氏ときちんと顔を合わせて語りあった体験としては2001年のワシントンでの夕食会が思い出される。アメリカで9.11の同時多発テロがあった年である。2001年でもまだそのテロが起きていない前半の時期だった。

当時の若宮氏は日本国内で朝日新聞の政治記者や政治部長として活動し、韓国のソウルに留学して、アジア問題にかかわるようになった後、ワシントンの大手シンクタンクのブルッキングス研究所で客員研究員として研修していた。

私も日本国内では毎日新聞の政治部記者だったことがあり、若宮氏とはすでに面識はあった。だから2001年の時点でも彼と顔を合わせれば、挨拶を交わしていた。彼はいつも礼儀正しく、穏和な挙措の人だった。こちらも丁寧に対応していたつもりである。

そんな時期にワシントンの日本大使館の公使邸に夕食に招かれた。たまたま訪米中の政治家の塩川正十郎氏が主賓だった。自民党の政権ですでに内閣官房長官や文部大臣を歴任し、その後の小泉純一郎内閣で財務大臣になる塩川氏には私は東京での取材活動で知己を得ていた。だからワシントンで声をかけてくれたのだろう。その席に若宮氏もいたのだ。

彼もベテラン政治記者として当然、塩川氏をよく知っていた。この一席を設けた公使は塩川氏に仕えた経験があり、なおかつ若宮氏と高校が同じの友人だったという記憶がある。

塩川氏はこの席で大いに語った。もちろん政治がらみの話だが、ユーモアを交えて、おもしろく楽しい内容が多かった。内閣官房長官として内閣機密費をいかに議員たちに渡したかなど、びっくりするほどなまなましい経験談をも語ってくれた。若宮氏も私も熱心に耳を傾けた。

このころは私は若宮氏が記者として書く記事をとくに意識もしていなかった。だから終始、友好的に接した。塩川氏が話を終えて席を立ったとき、若宮氏と顔をみあわせて「よくあそこまで話しましたね」とうなずきあったことを覚えている。

それ以来、ワシントンで若宮氏と出会うたびに言葉を交わし、彼が産経新聞ワシントン駐在編集特別委員としての私のオフィスに訪ねてきたこともあった。だから個人としての若宮啓文氏には親近感とさえ呼べる温かい思いさえ抱いていたといえる。その彼が中国の旅の宿で一人、客死したとの報には素直に胸が痛んだのだった。

しかしワシントンで私とのなごやかな接触があった時期の後の若宮氏は朝日新聞を代表する論客として活発な筆をふるうようになっていった。2002年9月から朝日新聞の論説主幹となり、5年半以上にわたり朝日の主張を世に出す代表的な発信者となったわけだ。

若宮氏が朝日新聞の論説主幹として、さらにはその後の2011年5月以降は朝日新聞主筆として、発表し続けた主張や論評のほとんどに対して私は反対だった。単なる朝日新聞と産経新聞のスタンスの違いなどという次元の反対ではなかった。

私が歳月の上、さらには取材対象の範囲の上では新聞記者として若宮氏よりは少なくとも量的には長く多い経験を積んできた結果、自然と築いてきた国際情勢への認識、日本という国のあり方への思考からして若宮記者の唱える主張、さらにその背後にそびえる朝日新聞的論調には根本から反対だった。

若宮氏個人にはなんの批判も敵意もないのは前述のとおりだが、彼が朝日新聞に発表する評論類には私は正面から反対を述べ、論争を挑んだ。産経新聞の自分のコラムでもそれを試みた。さらにそのころ産経新聞が始めた「iza!」という名の記者ブログでもより頻繁に書いた。

産経新聞が管理しながらも私自身が自由に筆をふるえるし、編集もできるその記者ブログには私は「ステージ風発」という名前をつけた。談論風発の「風発」だった。その場でも若宮氏の署名記事を取り上げ、反論を書いたのだった。

(その2に続く。全5回。毎日11:00に配信予定。この記事は雑誌「WILL」2016年7月号からの転載です)

古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)

最終更新:6/21(火) 11:04

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