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舞鶴のシベリア引揚げ秘話 「岸壁の母」の歌にもなった聖地

Japan In-depth 6/21(火) 18:00配信

先日、敗戦後の引揚者、外地抑留者の”聖地”とまで呼ばれた京都府の日本海に面した「舞鶴」へ行ってきた。

若狭湾からさらに奥に入り込んだ小さな湾の奥に位置する市で人口は約8万人。舞鶴エリア内には戸島、乙島、鳥島など小さな島がいくつも浮かんでおり実に静かで穏やかな雰囲気だ。高台に登って舞鶴湾を一望すると、まるで一幅の絵のような美しさだ。さすが近畿百景第1位に選ばれたと思わせる。

しかし、この舞鶴湾、舞鶴市は第二次大戦後、シベリアに抑留されたり朝鮮半島、中国、さらにはウズベキスタンなど中央アジアに残された捕虜・民間人660万人の日本人にとっては、夢にまでみた帰港地だった。いつ日本に帰れるかわからないまま、極寒、酷暑の地で食事も十分に与えられないまま厳しい労働生活を強いられていた日本人捕虜、抑留者にとってはウワサに聞く帰港地・舞鶴は見たことはないものの夢に出てくる場所だったのである。

多くの抑留者を暖かく迎えた港

舞鶴は軍港四市(横須賀、呉、佐世保、舞鶴)の一市で、戦前から赤れんがの海軍街として有名だった。初代司令長官の東郷平八郎元帥が過ごした街としても有名だ。富士、八島、敷島、朝日、三笠など軍艦の名前も実はすべて舞鶴市内を東西に走る通りの名をちなんでつけたものだという。

外地から戦後に祖国へ帰国することを“引揚げ”と呼んだが、引揚げ者を迎え入れる港は舞鶴のほか浦賀、佐世保、博多など十港が指定された。しかし舞鶴を除く港は約2~3年で引揚げ受け入れを中止するが、舞鶴だけは昭和25年以降も国内で唯一の引揚港となり、昭和33年までの13年間に約66万人と、1万6千柱の遺骨を迎え入れた。引揚船が舞鶴港に入ってくると、市民は小船を出して「お帰りなさい」「ご苦労さまでした」と引揚船に近寄り、岸壁にも大勢の人々が小旗を振って苦労をしのんだ。引揚者の人々は、捕虜になって帰国した人が大半だったので、罵声を浴びせられることも覚悟していたそうだが、お茶やふかし芋などを振舞われてその“もてなし”に涙を流して喜び、感激したといわれる。

今なお残る悲惨な抑留生活の証

舞鶴には引揚者が日本の大地を踏みしめた平(たいら)引揚桟橋が終戦と平和の象徴的スポットとして残されているほか、1988年に引揚記念館をつくる動きが高まり、建設。ユネスコ世界記録遺産に登録された館内にはシベリアや中央アジア抑留の史実を伝える展示コーナーがあり、語り部も常駐している。

そこにはウズベキスタン抑留とナボイ劇場建設の話も最近つけ加えられた。シベリアなどの数々の遺品や絵画、模型などが抑留生活の悲惨さを映し出している。

東京五輪でウズベクのホストタウンに

舞鶴とウズベキスタンのつながりは、舞鶴市が、私が会長を務める日本ウズベキスタン協会の活動や拙著「日本人捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」(角川書店)のノンフィクションを読んで接触してこられたことから始まった。

昨年秋、安倍首相がウズベキスタンを訪れ日本人墓地をお参りしたほか、抑留中の日本人の活動を記録し、私財で記念館を作ってくれたスルタノフ氏を日本に招待し、日本で舞鶴市長らと会ったことが縁となった。

引揚記念館の周囲には様々な部隊の植樹が行なわれているがウズベキスタンも2本の木を植えており、そのうち1本は中央アジアの親日の象徴であるオペラハウス“ナボイ劇場”をつくった方々が集われている“第4ラーゲル会”の桜だった。スルタノフ氏は日本滞在中に舞鶴に行き、それが縁となって舞鶴市は東京五輪の際にウズベキスタンをもてなすホストタウンにも名乗りをあげている。近くウズベク側と正式な調印と話し合いを行なう予定といわれる。

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最終更新:6/21(火) 18:00

Japan In-depth

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