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なぜ丹後半島には巨大古墳が多いのか?失われた古代「丹後王国」の謎を追う【謎解き歴史紀行】

サライ.jp 6/23(木) 17:30配信

歴史作家・安部龍太郎氏による『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。「サライ.jp」では本誌と連動した歴史解説編を、歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)がお届けしています。今回は、「丹後古代王国」の隆盛ぶりを今に伝える半島内の巨大古墳の謎に迫ります。

先に紹介したイザナギ・イザナミの国産み神話や徐福・浦島・羽衣伝承は、いずれも古代起源のもので、丹後の地勢的重要性を物語るものである。すなわち、畿内に隣接すること、同時に良港を擁する環日本海地域であることと深く関係している。中世における丹後府中の繁栄や守護一色氏の強勢は、このような条件に支えられていた。

古代の丹後は強国だった。日本で一番古い―弥生中期後半(2世紀後半)―水晶玉作り工房跡(京丹後市の奈具岡遺跡)が発見されたり、これまた日本で一番古い―5世紀後半~6世紀後半―製鉄所遺跡(京丹後市の遠所遺跡)が確認されている。

さらに、日本で一番古い年号を記した銅鏡「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう) 」(3世紀前半)が、大田南5号墳(京丹後市)から出土していることも有名だ。『魏志倭人伝』に記された中国の魏国王が邪馬台国の卑弥呼に贈った100枚の鏡のうちの1枚の可能性もあると、発掘当時は話題になった。

弥生時代以来、丹後半島にはガラス細工や製鉄など、きわめて高度な技術をもつ集団がおり、ヤマト王権(古墳時代の近畿地方を中心とする連合王権)に対しても容易に屈服しなかったといわれる。これが、古代「丹後王国」論である。

丹後半島の竹野(たかの)川流域には、網野銚子山古墳(国史跡、全長207m、京丹後市)・神明山古墳(国史跡、全長190m、京丹後市)・蛭子山(えびすやま)古墳(国史跡、全長14m、与謝野町)などの大型の前方後円墳が集中している。

ちなみに、これらは日本海側ではナンバー1・2・3の墳丘規模である。高度な技術を持つ渡来人によって、この地方には古代に独立した勢力が存在していたと考えられるようになってきた。かつて、故門脇禎二氏(京都府立大学名誉教授)が提唱した古代丹波王国論である。

門脇氏は、古墳時代に丹後地方を中心に栄え、ヤマト王権や吉備などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を「丹後王国」と呼んだ。竹野川流域を中心とする丹後王国は、4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲攻撃に伴いヤマト王権の支配下に入っていったとされる。

筆者は、学生時代に門脇氏の集中講義を拝聴し、通説の枠組みにとらわれないダイナミックな古代史議論にワクワクした記憶がある。ただし、この時期に丹後は存在せず、和銅6年(713)に丹波から分立したことから、「丹波(タニワ)王国」というのが正確かもしれない。



■丹後王国は、ヤマト政権と連携した?

今回の私たちの旅は、まさに古墳紀行だった。網野銚子山古墳は段丘上にあり、往時は入江に面していたものと推測される。おそらく築造に要する埴輪や葺石などの大量の資材は、舟や筏を利用して運ばれたのだろう。このようなロケーションは、神明山古墳でも同様だった。とにかく、見晴らしがよいのである。

これらの古墳が築かれた当時、この地域一帯には潟湖(せきこ)・竹野湖があり、良港があったと推定され、古代丹後の王たちは、農耕というよりも環日本海流通と深く関わっていたと考えられている。古墳を飾っていた埴輪のなかに、舟を漕ぐ人物を描いたものが発見されているのは、それと関係する。

神明山古墳の麓には竹野神社(たかのじんじゃ・延喜式内社)が鎮座する。開化天皇の妃竹野姫が、郷里であるこの地に帰り、天照大神を祀ったという伝承からは、ヤマト王権と丹後王国との連携を想像することが可能である。

古墳時代後期(6世紀末~7世紀初)を飾るのが、大成(おおなる)古墳群である。竹野の河口海岸の東側の切り立った崖の上に、古墳群が築かれている。日本海を見下ろす河岸段丘上に、横穴式石室を内部主体とする古墳が全部で13基確認されており、現在は公園として公開されている。

古墳からは須恵器・土師器などの土器や、刀剣・鉄鏃などの鉄器、碧玉製管玉・瑪瑙(めのう)製勾玉・ガラス小玉・金環(耳飾り)などの多様な装身具が発見されている。この地域の支配者のために築かれた群集墳とみてよいだろう。

私たち一行が訪れた日は快晴で、ここから沖の彼方まで実によく見渡せた。長年の風雨によって小振りの石室が露出し点在しているが、この独立した台地が死者を祀る特別の空間だったことを直感した。


■山陰海岸ジオパークの美しい風景

なお、この高台からは有名な立岩(たていわ・山陰海岸ジオパークの景勝地)を見下ろすことができた。竹野川河口の砂洲にそびえ立つ周囲が約1キロ・高さ20メートルにも及ぶ全国屈指の巨大な一枚岩柱状の玄武岩である。ここは、古代に大陸からの渡来船が漂着したところともいわれる。

また目を立岩の対岸後ヶ浜(のちがはま)海岸に転ずると、日本海を見つめてたたずむ母子像が見える。用明天皇の后・間人(はしうど)皇后と子息の厩戸皇子(うまやどのおうじ、後の聖徳太子)のモニュメントである。

6世紀末、ヤマト政権内の蘇我氏と物部氏との争乱を避け、皇后と皇子は間人(たいざ、京丹後市)に身を寄せたと伝えられている。村人たちの手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際、皇后は自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈ったという。

村人たちは、畏れ多いことから皇后が退座したことにちなみ読み方を「たいざ」としたと伝えられる。ちなみに、間人漁港で水揚げされる松葉カニが有名な「間人(たいざ)ガニ」であり、品質・味ともに最高級と言われている。

まことに美しい風景を眺めながら、この竹野川流域を中心とする古代「丹後王国」の地は、北九州・出雲という日本海側に栄えた王権とヤマト王権を結ぶ結節点に位置することに気づいた。古代の航海技術では、中国・朝鮮半島方面からの直行ルートは考えにくいからである。そうすると、「丹後王国」はガラス細工や製鉄といった高度な技術を背景とする中継貿易で栄えたとみられる。

しかし、ヤマト王権の力が浸透するなかで、その出先国家となったのではなかろうか。それは、竹野神社の伝承とも重なり、さらには大阪の大仙古墳(仁徳天皇陵)と同様の長持型石棺が、竹野川河口近くに位置する古墳時代中期の円墳・産土山(うぶすなやま)古墳(国史跡、京丹後市)などで確認されていることも示唆的である。

したがって、丹後半島の巨大な前方後円墳はヤマト王権の力を誇示するものとみることもできるのではなかろうか。巨大古墳の全面を覆う葺石は、いずれも日本海を航行する船舶からの視線を意識してのものであろう。大陸からの品々を満載した大型船舶が、白色に輝く巨大前方後円墳をめざして竹野湖に入ってきたのではなかろうか。

30年以上も前に受けた門脇氏のエネルギッシュな講義を回想しつつ、失われた「丹後王国」を後にすることにした。鄙びた半島の町や村に、かそけき歴史の光をみいだすのが、私たち一行の身上である。千五百年の時空を隔てたこの丹後半島の地に、豊穣な繁栄がもたらされていたことを確信した旅であった。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

最終更新:6/23(木) 17:30

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