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夏目漱石が中学の英語教師として受け取った月給の額はおいくら?

サライ.jp 6/25(土) 7:10配信

今から121 年前の今日、すなわち明治28年(1895)6月25日は、愛媛尋常中学(松山中学)の給料日だった。漱石は月給80円を受け取った。前任の外国人教師に代わる招聘ということで、住田昇校長の月給60円を上回る高給だった。

外国人教師並みの待遇での松山行きが決まったときは、漱石自身、「留学資金でもためられればいいな」と思ってもいた。だが、どうも事はそんなに簡単には運びそうもなかった。夏目家の家運衰退も影響して、松山へ赴任するための支度金も友人から借りたくらい。それを返済し、実家の父へ毎月10円、姉へ3円の仕送りもしなければいけないし、漱石の懐具合はなかなかに苦しく、やりくり算段が続いていた。

「猶予してもらっている東京帝国大学からの貸与金(奨学金)の月賦返済も、そろそろ始めなければいけないのだが…」

そんな思いも、漱石の頭の隅にはあった。大学時代の漱石は、学資を補うため、東京専門学校(現・早稲田大学)の教師などをする一方で、大学からも月額15円の奨学金を受け取っていたのだった。

松山で英語教師をつとめていた時代、漱石が下宿していた上野家の表玄関。ここから学校までは400 メートルほどだったという。神奈川近代文学館所蔵
松山で英語教師をつとめていた時代、漱石が下宿していた上野家の表玄関。ここから学校までは400 メートルほどだったという。神奈川近代文学館所蔵
漱石が下宿に帰ると、帝国大学書記官の清水彦五郎から封書が届いていた。「来たか」と思いながら開封すると、案の定、中の書面には、返済猶予期間も満了したので、そろそろ貸与金(奨学金)の返済を始めてほしい旨がしたためられていた。漱石は急いで返事を書いた。

《期限も既に経過致候に付ては、そのうち何とか致す心得に有之(これあり)候ところ、たちまち貴書を拝受し慚愧(ざんき)の至に堪えず。仰(おおせ)の通り追々両三月中より月賦にて御返済可致(いたすべく)候間(そろあいだ)左様御承知下されたく候》

そろそろ毎月の返済を実施していきますという、連絡の手紙。どこか畏まった趣も感じられる。

漱石はこのあと実際に返済をはじめ、それは結婚後もしばらく続いていくのだが、こうした生真面目な人物は珍しかったようだ。のちに妻の鏡子が回想録『漱石の思い出』の中で、関係者から聞いた話をこう伝えている。

《大学にいたころ貸費生だったので、それを正直に毎月七円五十銭ずつ返しておりました。後で小山温さんにうかがえば、当時の大学はそれほど規則ずくめでなく、家計困難につきと願書を一本差しだしておけば、貸費はおろか授業料まで免除されたものだそうで、誰も彼も皆その手をやって、しかも卒業してから返すどころじゃなかったそうです。夏目さんは莫迦正直でしたなといつぞや笑っておられたことがありました》

校長を上回る破格の高給というと悠々と暮らしていたようにも思えるが、借りたものを地道に返しながら、結構、お金の苦労も味わっている漱石先生であった。

■今日の漱石「心の言葉」
金はある意味に於て貴重なものである(『断片』明治39年より)

Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

最終更新:6/25(土) 7:10

サライ.jp