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「成長の終わり」はやってくるのか? アメリカで話題の「米国の成長の盛衰」を読んでみた

HARBOR BUSINESS Online 6/25(土) 9:10配信

 仮に、現在私たちが不況下に暮らしているとするならば、好景気とは一体どのような状態を指すのだろうか。多くの人は、1980年代のバブルやそれ以前の高度経済成長期を思い浮かべるかもしれない。そして、リーマンショックから今日に至るまでの停滞もいずれ解消され、労働と消費の力強い循環が再び訪れる日を待ち望んでいることだろう。

 そこへ、“そんな夢物語はもう二度とやってこない”と冷や水を浴びせられたら、あなたは怒るだろうか? それとも絶望するだろうか? しかし、それは嫌味でも皮肉でもない。受け入れざるを得ない現実としてやってくる―――。

 そんな経済の行く末を予測した本が、アメリカで話題を呼んでいる。それが『The Rise and Fall of American Growth:The U.S. Standard of Living since the Civil War』だ。著者ロバート・J・ゴードン(マクロ経済学者)によれば、いわゆる“経済成長”は1870年代から1970年代に限られた現象であり、その爆発的な規模と伸びは、人類史において「たった一度しか起きない」ミラクルだったのだ。

 かのポール・クルーグマンも、ゴードンの言う通りになるかどうかは別として、未来はこれまでとは全く違った形で現れるとの見解には共感を示している。

◆「経済成長」は人類にとって奇跡だった!?

 そもそも、人類には経済成長の概念すらなかったのだという。10万年に及ぶ人類の歴史のうち、およそ99800年ほどの期間は戦争や農業の誕生などを除き、「何もなかった」のだ。

 では、19世紀後半から20世紀後半のおよそ100年間で、一体何が起きたというのか。それは、ライフスタイルを激変させた“大発明”(Great Inventions)の出現だ。上下水道、ガス、電気、鉄道、自動車、缶詰に冷凍食品、洗濯機、ラジオ、冷蔵庫、電話などなど……。

 暮らしの都市化をうながすアイテムへの需要は、当然高まる。それに伴い労働も効率化される。時間当たりの賃金も上昇し、さらなる消費を刺激する。それこそが、「たった一度しか起きない」サイクルだったのだ。

 だが、永遠に続くわけではない。ゴードンによれば、近代的な生活の基盤は1940年代の時点ですでに出来上がっていたのだという。1970年代までの30年間では、エンターテイメントなどオマケの分野での成長が見られたが、それも出尽くした。そして現在。とうとう緩やかな下り坂が見えてきた。“1970年代以降に生まれた皆さん、残念でした。” これが本書のメインテーマである。

 そんなことを言うと、“IT革命はどうした?”と思うかもしれない。しかし、それも“大発明”ほどのインパクトは与えられないだろうと、ゴードンは考えている。たとえばロボット。“テクノ失業”の恐怖が叫ばれているが、MITのダニエラ・ルスによれば、いまだ洗濯物をたたむといった単純作業すらこなせないレベルなのだという。

 さらに自動車のデジタル化。雑誌『Consumer Reports』に寄せられる苦情で最も多いのが、音楽再生やナビゲーション等、ハンズフリーのスマホとの連動システム関連だ。

 確かにエコノミストの中には、これら新たな産業を“成長の起爆剤”と考える向きもあるが、ゴードンは「techno-optimists」(お気楽なテクノボケ)と一蹴する。もちろん、今後急速に発展すれば、限定的には富を生むかもしれない。だが、忘れてはならないのは、それとて“大発明”の枝葉に過ぎないということだろう。

 問題は、新たな技術革新によって再び経済成長が到来するか否かではない。むしろ文明そのものを自然として生きざるを得なくなっている現状にあるのではないだろうか。

◆「当たり前」の快適さがスポイルする人類という種

<私たちは、いまや快適さそのものに慣れてしまった。それゆえ、今日のような生活が築かれてきた道すじを、簡単に忘れてしまう。>(本書 Chapter 1 P3、筆者訳・以下同)

 スピードや便利さが当たり前となり、“何を何のために克服したのか”が分からなくなっているのだ。時間と空間を支配するテクノロジーが人類にもたらしたものは、希薄な生と、覆い隠された死である。ゴードンの指摘は、フロイトの“予言”に通じる。

<人間の寿命が延びたといっても、その人生が困難なものであり、喜びは少なく、これほど苦痛に満ちたもので、死を救いとして歓迎せざるをえないとすれば、いったいどんな意味があるのだろうか。>(『幻想の未来/文化への不満』 著・フロイト 訳・中山元 P176)

 もしもゴードンの見立て通り、経済が下降の一途をたどるのであれば、それは新世紀の“大発見”が誕生しないからではなく、もはや技術革新それ自体に嫌気がさしているからなのかもしれない。

 たとえばスマートウォッチの普及率は当初の想定を遥かに下回っているという。便利かどうかはともかく、もう要らないと感じているのではないだろうか。アーティストのジョシュ・クライン(1979年生まれ)の作品を見れば、そうした時代の気分がよく理解できるだろう。

 ただし、拒否反応は表現できても、それで技術による支配、管理の強化に歯止めをかけられるわけではない。経済活動が鈍化したところで待ち受けているのは、新たなる茫漠たる荒野なのである。

 本書はタイトルの通り、アメリカ経済の行く末を案じたものである。だが、指摘される多くの問題は現在の日本にも共通している。明治以降、私たちの暮らしぶりは、見事に近代化された。その恩恵にもあずかってきた。だがそれも終焉を迎え、過去の果実には今日の困難という種子が隠れていたことを思い知る。

 それでも、経済成長を目指さなければならないのだろうか。10万年の歴史の中で、たった200年ほどの“奇跡”を前提とした生き方をしなければならないのだろうか。

<人生の問題の解決策を見つけたと思い、「さあ、これで楽になったぞ」とつぶやきたくなったとしよう。そのとき、それがまちがいであると証明するには、「解決策」が見つかっていなかった時代があったことを考えればいい。その時代にだって生きることができたはずであり、その時代のことを考えれば、発見した解決策など偶然にすぎないと思えるのだ。>(『反哲学的断章―――文化と価値』 著・ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 訳・丘沢静也 P30)

 確かに、数字上の未来は明るくない。それは避けられない。だが、一方で、その暗さの中にこそ、ヒントがあるとは言えないだろうか。「成長が終わること」を解き明かした本書を裏から読むと、“ふつうの経済活動とは何だろう?”と考えさせられるからだ。<文/石黒隆之>

ハーバー・ビジネス・オンライン

最終更新:6/25(土) 9:10

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