ここから本文です

菊地成孔の『ひと夏のファンタジア』評:言葉が浮かばない。今年前半で最も感動した、劇映画による「夢」の構造。

リアルサウンド 6/29(水) 12:09配信

<音楽にも、そして映画にも「調性」が存在する>

 「調性」は自律性の一種で、事前にコンテキストの共有がなくとも、鑑賞者に作品の同一性と環境を与え、時間の進行と共に、物語が進行する、その進行に鑑賞者を乗せ、運んで行くことができる。

 我々が一般的に「普通の音楽」と見做す、12音平均律を調性に採用している音楽に於いて、調性は「長調/短調」更には「ハ長調(Cメジャー)/イ短調(Aマイナー)」といった固有名が与えられ、7音で構成される(残る5音は排除されるが、容易に侵入し、同一性を揺らがせながら強化する)。

 これをヒエラルヒーの頂点に、リズム上の調性である「拍子」や、音質の同一性、演奏音楽の場合は、演奏者が途中で無根拠に変わらないこと、等々、自律性としての「調性」は、音楽内のあらゆる階層に張り巡らされ、群体として音楽を律している。

 映画にもこれにあたるものがある。それは脚本(台詞と物語の集積)が、その祖先である演劇の脚本の時代に義務付けられた「三一致の法則」もそうだし、画質やメディアなどの同一性、同じ役を違う俳優が無根拠に演じない、といった同一性、等々、音楽のそれと似ている。

 「映画にも調性がある」という時、それは音楽至上主義的である事を避けられないが、かの「モンタージュ理論」の提唱者であり実践者であるエイゼンシュタインは、陽の目を見ることがなかった「映画と音楽の統一理論(「映画における第三次元」)」の中で、視覚情報(映画側)に於ける同一性に関しては、すべて音楽用語を援用する形にし、「音楽に於ける調性」という表現をはじめ、音楽側がたじろぐほどに映画理論に音楽の楽典用語が当てはめられている。

 自律性、同一性である「調性」を失った、つまり「多調」「無調」という状態は、一般的には「前衛的」「意味不明」「難しい」という反応を起こさせ易いが、調性と脱・調性、あるいは反・調性は対立物でも絶対分離性質ではなく、基本的にはすべての作品の中で、滑らかに液状化している。

 一般的に音楽に於ける調性の完成は18世紀とされ、その力を思う存分に振るったのが19世紀であり、20世紀は脱・調性/反・調性という、一種の親殺し、左翼性の追求がなされた時代であるが、19世紀末の先駆者たち(ワグナーなど)、の業績を受けて、20世紀の無調音楽の礎を築いた者には、まるで映画のように悪玉と善玉がいる。悪玉はシェーンベルク、善玉がクロード・ドビュッシーである。シェーンベルクをデヴィッド・リンチだとした時、クロード・ドビュッシー的だと言うことができる、私的には、本年前半のベスト1として一切の後悔がないと断言できる本作を、映画ジャーナリズム的に言えば

「ソフトで切ないタッチだから気がつかないけど、リンチみたいなもんだコレは」

 と言うことが、可能といえば可能である。

<先ずは悪点を>

 最初に悪点のみ挙げて楽になってしまおうとするならば2点ある。

 邦題の「ひと夏のファンタジア」は、配給会社の苦肉を鑑みたとしても大変に残念である。単に田舎を舞台にした凡庸な夏の恋ものがたりだと思われる。

 これは二重の意味で仕方がない。若きチャン・ゴンジェに有形無形の影響を与えているのが明らかなホン・サンスの邦題には直訳、逐語訳の作品がほとんどなく、配給会社は苦渋を舐めながら、敢えて通俗的な邦題と宣伝文句を書かなくてはいけなかった。そして、本作の英題は「ミッドサマー・ファンタジア」であり、英題の段階で単に田舎を舞台にした凡庸な夏の恋ものがたりだと思われるようなものだ。つまり同情に値する。

 もう一点はあまり同情に値しない。奈良県の奈良市から電車で2時間半かかる五条市と、更にそこから車で1時間ほどかかる篠原村を舞台にした本作は、作品の強度によって、辛うじて免れているものの、「奈良を出せばカンヌ」「アジアの森でロッテルダム」といった、一種の、海外映画祭対応のアニミズム利権(別名*河瀬直美利権)の中にあり、「しょうがねえじゃん。<なら国際映画祭>の出品作品なんだからさ」と言う反論はあるだろうが、では、吉本興業が仕切る「沖縄国際映画祭」で、美しい海を舞台にしたトーンとマナーが決まった映画が量産され、海外映画祭での受賞、或いは国内での興収、特定の批評者群が約束する高評、等々、あらゆる形の既得権益を持ったとしたら、どう思われるだろうか?

 筆者はこうして、ローカリティを既得権益化する、つまり東京にある各県のアンテナショップの作法で芸術が生まれることに批判的である。「右岸派/左岸派」や「西海岸ジャズ」といった現象のローカリティと真逆に位置すると思う。「いやあ、それ言ったら、カンヌ映画祭だって、もともとは観光誘致みたいなもんですよ」と言う反論は、十分予測の上で、である。

 それにしても、繰り返すが本作は、個人的な今年上半期ベスト作である。如何様なセッティングの中でも、セッティング自体を超える傑作が生み出される可能性は常にある。

<夢と夢の素材>

 我々は覚醒中に「現実」を見たり聞いたり、味わったり触ったりし、つまりリアルを経験と記憶として溜め込み、入眠し、夢を見る。つまり我々の視聴覚経験は、少なくとも二部構成になっている。本作のように。

 その際、夢の素材は全て現実から得られている、どんなに荒唐無稽で<非現実的>な夢でも、その素材は全て現実だ。

 ただ、夢は完全に調性を失っているとしか思えず、同一律も排他律も因果律も何もなく、つまり無限に前衛的であると同時に、素材が現実なので、独特の前衛性、個人性を持っている事は、何方もご存知であろう。

 フロイトのように、この「素材は現実」であることを担保に、夢を具体的に分析、判断しようという派閥もあるし、シュールレアリストのように、夢の強度をそのまま覚醒時に再現/獲得しようという派閥もある。

 アルフレッド・ヒッチコック、ペドロ・アルモドヴァル、ウッディ・アレン等は、各々作法は違うがフロイト派だと言える。一方で、純血のシュールレアリストとして映画を撮り続けた監督の代表にルイス・ブニュエルがいる。

 「3人のアンヌ(原題の逐語訳「別の国で」)」撮影中、主演のイザベル・ユペールに、ブニュエルの著作を読ませ続けたホン・サンスは言うまでもなくシュールレアリストの血を引いており、その遺伝子は、余すところなく本作の若き(39歳。オフショットを見る限り、ラッパーにしか見えない)チャン・ゴンジェにも受け継がれている。

 本作は前述の通り、我々の人生を線状に繋いでいる、二部構成の視聴覚経験に則る形で二部構成になっている。つまり、第一部は、第二部という「夢」の素材であり、そのことは、第一部のタイトルが「ミッドサマー・ストーリー」、第二部のタイトルが「ファンタジア」であることによって、あけすけなまでに表明されている。が、一筋縄では行かない。

 この場合、最も「一筋縄」な作品が「オズの魔法使い」であろう。主人公ドロシーの見た<夢>は、昼間の「現実」と、無根拠ながら因果律を持っていることが明確に示される。奇想天外なキャラクターたちと、ドロシーの日常の住人である労働者たちは、同じ俳優が演じている。

 本作をざっと斜め見した観客の何割かは「前半は後半のロケハンや取材を撮影したドキュメンタリー(現実)、後半がその結果の作品(夢)」と自動的に思うだろう。だが実際は違う。本作の前半部は、確かに映画製作のためのロケハンと取材を描いており、あまつさえ、その半分(住民へのインタビュー)の半分はドキュメンタリーである。しかし、それとて半分なのだ。

 厳密に言うと、前半の階層は以下の3層がある

1)俳優が演じる、「監督と通訳者であり助手である女性の、ロケハンと取材」のシーン(脚本のほとんどない、即興的な演技ながら、ドキュメンタリーに非ず)

2)その、2人の俳優(イム・ヒョングク、キム・セビョク)が、五条市の住民と篠原村の住人にインタビューを行うシーン(ハーフドキュメンタリー=インタビューに答えている住民は俳優ではなく、セリフでもない)

3)画面に俳優はいなく、インタビューを受けている住民がカメラ目線でインタビューに答えるシーン(ドキュメンタリー=実際に監督に向かって喋っていると思われる)

(※編注:日本公開バージョンでは、CHAPTER1:First Love,Yoshiko、CHAPTER 2:Well of Sakuraに変更されています)

<夢と夢の素材。の反転、もしくは液状化>

 ここまでの論旨に従えば、前半よりも荒唐無稽である筈の「夢」としての後半よりも、整然としていなければならない筈だ。ところが、上記3層がミクストメディアのアート作品のように混在する前半は、要約すれば3~4行で済んでしまうほどシンプルでアンチドラマティズムの、淡々とした「後半」よりも、若干不穏なのである。

 「前半」を素材とし、あらゆる律から自由な「夢」であるべき後半(第二部 「ファンタジア」)は、上記の通り、「ストーリーを要約しろ」と言われれば、以下のようなものだ。

 <韓国人で女優のへジョンは、女優としての壁を感じており、何かを探しに五条市までひとり旅に来ている、そこで、農家を営むユウスケに声をかけられ、観光案内される。ユウスケが思いっきり惚れ込む形で、二人は二日間の疑似デートを過ごし、ごくごく軽い恋愛感情が芽生えかけるが、結ばれない>

 夢でもなんでもない。淡白過ぎるほどの出来事が、極めてリアルに描かれる。

 しかし、明らかにこれは、前半を素材とした「夢」なのである。もう一度書くが、夢は、あらゆる律から自由で、前衛的ですらあるのだが、素材が全て現実であることから、完全な抽象化にまでは至らず「夢のリアリティ」といった、特殊で個人的なシュールレアリズムの状態を恒常化させる(デヴィッド・リンチの映画から、「暗号化された因果律」を読み取ろうとする、愛すべき愚者がいなくならないのは、そのせいである)。

 そして、その、無限のヴァリエーションの中には「現実と見紛うような夢」もある。本作での第二部は、こうした、リアリズムに1ミリの亀裂も生じさせない、一見現実のように見える、しかし、明らかに第一部を素材とした夢である。第一部との関係性は、あるようで、全くない。

 筆者は本作をDVDで5回見たが、だんだんと、ここまで書いた「夢と夢の素材」の前後関係、質差関係が転倒してゆくのを感じた。つまり「ちびくろサンボ」のエンディング、回転するトラがバターになる、魔術的な回転式坩堝であり、ホン・サンスがあらゆる手段を講じて脱構築しようとした「夢と夢の素材としての現実」に対して、非常に斬新でありながら、一見何もやっていないかのような自然派的な方法で、新たな一手を加えている。

<夢が喚起する感情と、現実が喚起する感情>

 第二部が我々に与える異様なまでの感動。もう本当に淡白で、若干いやらしいぐらいにリアルでユーモラスで、しかし再度、特に何も起こらない、まるでリアリティーショーかバラエティ番組の隠し撮りのような映像が、喚起する、正に字義に忠実に「夢のように」みずみずしい、我が国の民が、飢餓状態の小児のように年中欲しがってやまない「胸がキュンキュン」する感覚の横溢は、ごくごく自然であると同時に、奇跡的である。

 なぜなら我々は、夢でしか得られない、強烈な感情について熟知している。悪夢を見たときの異様なまでの恐ろしさ、淫夢を見たときの、異様なまでの興奮、そして「夢の恋」とも「恋の夢」とも言える、不条理なまでに切ない、恋の気分。第二部は、こうした、夢でしか得られない、恋の切なさが炸裂する。

 二日間、まるで日本人と韓国人の国民性が転倒したかのように、ユウスケはへジョンに迫る。まるで日本の乙女のように、へジョンははにかみ、表情の小さな変化だけで対応する。

 明日、韓国に帰る。韓国には恋人がいます。というへジョンにユウスケは、ひるむことなく「今夜、花火大会があるから、一緒に行かないか」と言う。へジョンは顔を振って、無言で断る。ユウスケは、自分が韓国に行ったら、昨日と今日みたいに案内してくれる?と言う。永遠とも思える数秒の沈黙の後、へジョンは、「紙ありますか?」と言う、連絡先を教えようとするのだ。

 紙は持っていないから、そうだな、、、と言って、この手首に書いて。とユウスケは言い、ヘジョンが書き終えるや否や、そのままヘジョンの手を取る。

 あらゆるキスは、発生である。と蓮實重彦は言った。現実界であれ、象徴界であれ、想像界であれ、主観であれ、客観であれ、キスは全て、発生の歓喜に満ちている。クロノスでもカイロスでもない、永劫とつながった、第三の時間である「発生」。そこには準備も助走もない。

 ヘジョンが苦笑いしながら一歩退くのか、思わずユウスケを平手打ちするのか、ふざけてじゃれ合うことでごまかすのか、キスに応じるのか、我々にはヒントも伏線も与えられていない。そして、次の瞬間、半ば強引にキスするユウスケに応じたヘジョンは、我々の誰もが驚くほどの積極性で、キスを仕返し、驚くほど強く抱きしめ合うのである。この、夢でしか経験できない強度の、恋の切なさ。

 これが夢でなければ、つまり二部制を採らない普通の恋愛映画だとしても、多少は胸ぐらいキュンキュンしたであろう。しかし、本作でのこのシーンは、黒澤明の「椿三十郎」のラスト、三船敏郎と仲代達矢による、数分間の見つめ合いの末に、二人が同時に剣を抜き、一瞬で仲代達矢の胸から、ショワーのように血が溢れ、決着がつく、あの「発生」の強度に満ちた伝説の決闘シーンと同じ構図によって、同じ強さの、つまり異様なまでの、再びつまり、「夢のような」興奮を見る者に与える。それは第二部が、どれほど現実に似ていようとも、夢であるからに他ならない。

<ありきたりな結末(映画は全て夢である)>

 つまるところ映画、厳密には映画の効果は、全て夢、厳密に言うと夢の効果なのである。しかし、あらゆる凡庸さ、あらゆる疲労、あらゆる既視感、あらゆる現代性によって、映画の第一属性ともいうべき、この夢=発生の連続性という力を、原始人に対する現代人の視力のように失ってしまっている。

 すべての映画は、これを取り戻すための叡智と努力さえ怠らなければ良いのだ。本作のように。

 数十秒のキスの後、二人は別れる。ユウスケは一人で花火大会に行き、イカ焼きのようなものにかぶりつきながら歩き回ったり、土手でビールを飲んだりしている。ヘジョンは、一人安宿の食堂で食事をし、安宿の風呂に入る。今まで「女優というにはちょっと地味かな?小劇場の女優かなんかだろう。ちょっと小保方似(STAP細胞)」と我々に思わせ続けた彼女の顔が、上気した肌と濡れた髪、落ちかけたメイクによって、驚くほどの艶を帯びる。ユウスケは土手で花火を見ている。そして、湯上がりの彼女も花火を見ている。

<素晴らしい、スローションのように素晴らしい音楽>

 劇中で流れる音楽は3ピースしかない。メロディーを持たぬそれは、一見イージーなセンチメンタル・コード弾きに聞こえるかもしれない。しかし、音楽家として言わせてもらうのであれば、こうしたコード弾きほど、音楽家の誠意とセンスが問われるものはない。本作でのコードの連結は、シンプルな情緒を、どれだけ新鮮に響かせ、しかもアクロバティックに聴こえないように連結されている。かなり高いセンスと技術である。

 そして、ドラマティックなことは何も起こらないのに、異様なまでに切ない夢。が終わると、イ・ミンフィによる、韓国語と日本語で交互に歌われる絶品のラブソングが、ゆっくりゆっくりと流れ始める。この曲を聴くためだけでも、本作を観るべきだ。そして、この歌を聴きながら、我々は、余りに切実な切なさを湛えた「夢の余韻」を抱えながら、ゆっくりとゆっくりと、静かに現実に戻るのである。その時の感情、つまり夢から現実に移行する経過に生じる感情は、「寂しい」に他ならない。我々は、「マッドマックス/怒りのデスロード」を見た帰り、「あー面白かった!大満足!」「超ヤバくなかった?!!」と口では言いながらも、間違いなく寂しさを感じているのである。

菊地成孔

最終更新:6/30(木) 10:23

リアルサウンド

Yahoo!ニュースからのお知らせ