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8年前は他人事だった五輪。塩谷司の意識を変えた父の急死と成功への道のりとは――

SOCCER DIGEST Web 7/1(金) 21:33配信

20歳で迎えた北京五輪は「違う世界の話だと思っていた」。

 8年前の北京五輪代表発表の時、塩谷司は20歳だった。同じ1988年生まれでは吉田麻也(サウサンプトン)、内田篤人(シャルケ)、森本貴幸(川崎)らが北京への道を掴んでいるが、国士舘大に在籍していた塩谷にとっては、まったくの他人事。
 
「あの時は代表などを考えるレベルの選手ではなかった。自分には縁のない大会。違う世界の話だと思っていたから」
 
 実際、当時の塩谷は国士舘大の試合にも出ることができず、腐っていた。「サッカーなんて楽しくない」と、オフに渋谷で遊ぶことだけが楽しみな大学生だった。
 
 そんな彼の意識を変えたのは、翌年に襲った父の急死である。経済的な苦境に立たされた塩谷家を支えるべく、長男の司は実家のある徳島に戻り、大学をやめて働く決意を固めた。だがその気持ちを翻意させたのは、細田三二監督の一言である。
 
「授業料も寮費のことも大学として相談に乗ってやるから、卒業はしておきなさい」
 
 心が動いた。母に相談してみた。
「なんとかするから、頑張りなさい」
 
 それまで、ストイックにサッカーを追求していたわけではなく、誰よりも努力を重ねてきたわけでもない。だが、母の愛情にうたれ、恩師の優しさに感謝し「絶対にプロになって、稼いで、家族を楽にしてやる」と決意したその時から、あっと言う間にサクセスストーリーが展開される。才能とは、本当に恐ろしい。
 
 塩谷司の潜在能力を初めて見抜いた柱谷哲二が国士舘大から水戸と継続して指導したことで膨らんだ才能は、森保一の元で開花。日本代表・Jリーグ優勝・ベストイレブンなど数々の栄光を掴んだ。それだけではない。20歳の時には想像もしえなかった栄光の道には、かつては夢物語だった「五輪出場」という花も咲いていたのである。
 
「サッカーをやめようと思っていた僕に『続けなさい』と言ってくださった細田監督は恩人。もちろん、育ててくれた母には本当に感謝しているし、父もきっと、天国から見守ってくれると思います。
 
(柱谷)哲さんには電話で報告しました。本当に喜んでくれましたね。今の自分は、哲さんから受けた鍛錬の賜物。(元日本代表の)鈴木隆行さんや吉原宏太さんも水戸で僕を鍛えてくれたし、広島では森保監督やたくさんの偉大な選手たちに導かれた。周りの皆さんが、僕を上に引き上げてくれたんです」
 
「オーバーエイジで出場する以上、結果が求められる」と力強く語った広島の若大将は、2018年のワールドカップを視野に捉えつつ、金メダルを狙う。
 
「日本のために戦うことによって、自分は成長できる」
 初めての世界大会に挑む塩谷司の巨大な潜在能力は、まだ満開ではない。
 
取材・文:中野和也(紫熊倶楽部編集長)
 

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最終更新:7/19(火) 15:43

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