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宮台真司の『二重生活』評:あり得たかもしれない演出を考えることで、普遍的寓意へと到達できる

リアルサウンド 7/6(水) 10:10配信

■25年前から尾行について書いてきた

 今回は『二重生活』(岸義幸監督/6月25日公開)と『シリア・モナムール』(オサーマ・モハンメド監督/6月18日公開)について共通のテーマを論じます。2つの映画をつなぐキーワードは「言葉」。共に「言葉が作る社会」とはどういうものかを考えるヒントを提示してくれます。

 『二重生活』は小池真理子の同名小説を原作に、門脇麦演じる大学院生が、リリー・フランキー演じる担当教授に勧められ、既婚男性への“哲学的尾行”を実践するという内容です。「尾行」というテーマ設定は、僕の著作では25年前から扱ってきたものです。最初の記述から自家引用します。

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それ[荒木経惟の写真が表現する「酷薄な偶発性」]は、街で偶然見かけた見知らぬ女をこっそり尾行するだけで得られる、その女の見知らぬ関係性自体ーー誰に会い、どこへ向い、何に手を触れるのかーーが醸しだす底知れぬエロスに似ている。「無害な概念」と「酷薄な偶発性」との差異ーー。
    『サブカルチャー神話解体』(1993年)第4章第2節、但し連載初出は1992年
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■「無害な概念」と「酷薄な偶発性」との差異

 引用の文脈を少し説明します。学園闘争が象徴する<若者>の時代は1973年に終わり、相手が若者だというだけで分かり合えた気分になる<相互浸透モード>がメディアから消え、かわりに、相手が若者だというだけでは何者なのか皆目分からないという<不透明モード>が一般化します。

 最初に少女漫画が代理体験ならぬ<関係性モデル>を提供するものに変じます。一流スポーツマンや平安京の女官など自分とかけ離れた憧れの存在を代理体験するかわりに、性愛コミュニケーションの不透明と不全感に悩む主人公に「これってあたし!」と共感するように一斉に変化します。

 主人公の周囲の世界を、自分から見える世界の解釈に用いる<関係性モデル>が、提供されるようになったのですが、4年遅れで青少年漫画に拡がります。<関係性モデル>は、当初「ドジでダメな自分」を指示したのが、77年以降「性愛の自由へと乗り出したのに不幸な自分」に変わります。

 この変化は同じ年(77年)に早くも青少年漫画に伝わります。少女漫画の“カワイイ”で言えば、「ロマンティックからキュートへ」「ヨーロピアンからアメリカンへ」「“白いお城と花咲く野原”から“撥ねる明るさ”へ」の変化です。男女を問わず、この77年は<性と舞台装置の時代>の幕開けでした。

 湘南(サーフィン)ブーム・ディスコブーム・テニスブーム・高原ペンションブームなどが相次いで訪れ、『ポパイ』等の雑誌は恋愛マニュアルとデートマップで埋め尽くされます。並行して、渋谷公園通りのような「カップルに在らずんば人にあらず」的なスポットも拡がって行きます。

 こうしたナンパ系的なものの強迫的な席巻を、スルーするためのシェルターとして、77年の劇場版『ヤマト』シリーズ以降、オタク系のメディアも拡大します。それに伴う「オタクの誕生」は、日本のサブカルチャーで何度も繰り返されてきた、<埋め合わせ>現象として理解できるでしょう。

 『ヤマト』ブームを背景に、77年以降『OUT』『アニメージュ』『ファンロード』が立て続けに創刊。79年からは、その2年前に始まったコミックマーケットが、高橋留美子人気を支えにブームになります。かくて83年、中森明夫が『漫画ぶりっこ』の連載で「おたく」と命名するに到ります。

 オタク系メディアは、ナンパ系を遮断するシェルターとして機能しましたが、ナンパ系は、今紹介した始まり方ゆえに、当初から[記号系/渾沌系]が分化していました。始まり方というのは、メディア上の<関係性モデル>(カワイイモードや恋愛マニュアル)のゲタを履いていたことです。

 この分化は、フォト表現で言えば[隣の女の子(篠山紀信)/大股開き(荒木経惟)]の対立に対応します。これは、同時代のくらもちふさこの少女漫画や柳沢きみおの青少年漫画が描き出した通り、現実の性愛生活に於ける[モード(フェチ)の戯れ/ダイヴの渾沌]の対立にも照応します。

 この対立が、先の自家引用で、《「無害な概念」と「酷薄な偶発性」との差異》と述べたものです。オタク系がナンパ系からの退避だったのと同型的に、同じナンパ系でも記号系のそれは、渾沌系のそれからの退避だったのです。さて、この対立が80年代半ばに決定的な事態を迎えます。

■出会い系バイトで身を持ち崩すのは尾行と同じ

 世界初の出会い系メディアであるテレクラが85年から、NTT伝言ダイヤルが88年から、恐るべきブームとなり、若年女子が一挙に性愛行動に乗り出した結果、80年代に高3女子の性体験率が倍増したのです。その結果<こんなはずじゃなかった感>が蔓延し、以降の性愛文化を方向づけます。

 86年に岡田有希子が投身自殺し、死体の頭蓋が割れて流れ出た脳漿が歩道に飛び散る様が写真誌に掲載されました。その後一年ほどの間、周囲が悩みの存在を想像したことすらない少女らが、雑誌『ムー』のお便り欄で前世の名を手掛かりに仲間を募り、屋上から飛び降りました。

 僕は83年からナンパをするようになり、当初からテレクラ・伝言ダイヤルにハマっていたので、女の子らとのピロートークから自殺念慮を多く聞き出しました。僕はそこで、<性愛に乗り出せないがゆえの悩み>が<性愛に乗り出したがゆえの悩み>にシフトしたことを、理解したのです。

 歌手の岡田有希子は30歳以上離れた男との恋に破れて自殺したというのがマスコミの解説でしたが、僕が出会った子らは、失恋にではなく、誰よりも容姿と才能と人気に恵まれた彼女が、父親よりも年長の男に焦がれざるを得なかった「性愛の不毛」にこそ、鋭く感応していました。

 容姿に恵まれない子が、代替リソースとしてのオマジナイに思いを託したのが79年創刊『マイバースデー』でしたが、85年秋以降、どんな子でも電話一本で60分以内に誰かとセックスできる状況になると、同じ79年創刊『ムー』のお便り欄が自殺仲間を探す子で溢れるようになりました。

 この背後にあるメカニズムについて、同じ『サブカルチャー神話解体』(1993年)第4章第2節で、僕は次のように分析しています。お読みいただければ分かるように、これは尾行することが一部の人たちに精神的変調をもらたすメカニズムについての、詳細な解説にもなっています。

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 ここ[=性的に自己操縦できなくなること]にはさらに[=地元性からも都会性からも二重に疎外された郊外性以外に]「電話風俗」に固有の「浮遊化」のメカニズムも見いだされる。テレクラに始まる「電話風俗」は、88年以降の伝言ダイヤルブーム、90年以降のQ2ツーショットブームへと受け継がれたが、私たちが90年に取材したQ2ツーショットのバイト嬢たちの証言は、このメカニズムについて興味深い事実を明らかにしてくれる。

 当時新参だったQ2ツーショットは、その多くがバイト嬢を使っていたが、彼女らは求人誌等で「テレフォンオペレーター」「ホテルの交換手」といった募集に応じて面接に来たところが、「それもあるけど、もっといい時給(1500~2000円)の楽なバイトがあるよ」の類の勧誘を受けたものだった。多くは自宅の回線を利用して日中から仕事をできるのと、「どーせ電話だ」という安心感から、私たちが調べた範囲でも東京六大学や一流女子大に在籍する女の子が珍しくなかった。

 ところが「いい大学」の「身持ちの堅かった」子が、バイトを始めてから突然精神的な「変調」を来し「生活を乱し」てしまうケースも少なくなかった。そのストーリーは不思議なほど一致する。ーーそれまでは何ともなかったものが、いろんな電話を受けていると耐えられないほど寂しくなり、寂しくなってプライベートにQ2を利用するようになるが、電話をすればするほど寂しくなって、ほどなく相手の男の子と逢って性的交渉を持つようになり、それがかえって寂しさを募らせて結局は不特定の相手と交渉を持つにいたる…。

《私のお父さんと同じような年齢の人とか、60歳のおじいちゃんとか、16歳の高校生とか、本当に色々いて…。それでただハアハアしてたり、私を誘ったりして…。何か今まで知らなかった世界に触れた気がしたの。私は本当に世間を知らないんだなって》ーー茨城大学4年(当時)のバイト嬢の証言

 一方で「どんな男の人にも、知らなかった裏の顔がある」という強烈な実感が「自分には世の中が分かってない」という「不透明感」を急上昇させ、それまでの「自己信頼」を喪失させる。他方で「一秒遅れれば違う人に繋がったハズ」という、電話コミュニケーションで突如直面した過剰な〈関係の偶発性〉が人間関係一般に敷衍され、「現実の手触り」が喪失する。「自己信頼」の弱体化はただでさえ手応えのない「現実の手触り」への希求を高めるから、喪失感はますます触媒されざるを得ないーー。
 こうした論理関係ゆえに、低年齢ないしオボコかったりで〈関係の偶発性〉に対する免疫力の小さい人格システムほど、抜けられない循環へと吸引されるという皮肉な結果になるのだ。
    『サブカルチャー神話解体』(1993年)第4章第2節、但し連載初出は1992年
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 要は「無害な概念」に埋没していた年少者らが、テレクラや伝言ダイヤルのブームがもたらした同調圧力によって強制的に「酷薄な偶発性」に晒されることを通じて、現実感覚が失調して自己操縦ができなくなり、巨大な<こんなはずじゃなかった感>に打ちのめされるようになったのです。

■ファンタズム批判が現実化すると精神を失調する

 先に荒木経惟に関する記述を自家引用しましたが、そこでは《街で偶然見かけた見知らぬ女をこっそり尾行するだけで得られる、その女の見知らぬ関係性自体ーー誰に会い、どこへ向い、何に手を触れるのかーーが醸しだす底知れぬエロス》がアートとなる可能性を賞揚していました。

 近代のアート概念は初期ロマン派のもので、[離陸・渾沌・着陸]の通過儀礼図式に擬えれば、疲れた心身をほぐして元に戻す娯楽=リクリエーションが離陸面と着陸面を同じくするのとは違い、アートは、渾沌(アート体験)を経た後、同じ離陸面に着陸することを不可能にするものを言います。

 荒木作品が開示する渾沌体験は、「無害な概念=リアリティ」から引き剥がして僕らに「酷薄な偶発性=リアル」を突き付け、文字通り元に戻れなくするとい意味で、紛うことなきアートでしょう。しかし、その渾沌体験が現実に与えられると、若年者の多くが精神的失調を来してしまうのでした。

 そこでは、ツーショット・ダイヤルのサクラ嬢をする女子大学生らが精神的失調を来すのと同じメカニズムが働いています。リアリティ(言語的なファンタズム)の向こう側にあるリアル(言語化不可能な規定不能性)に対する免疫がないので、リアリティを生きられなくなるのです。

 「隣の女の子(篠山紀信)が、会ったばかりの見知らぬ男の前で大股開き(荒木経惟)してるぜ」という突き付けは、77年以降の「性愛の時代」が、<関係性モデル>ないし記号的ファンタズムによる偶発性遮断に支援された「見たくないものを見ない営み」である事実を鋭く批判したものです。

 『サブカルチャー神話解体』は、記号系的ナンパ系を批判する渾沌系的ナンパ系の各種表現が、92年の執筆段階で急速に衰退しつつあることを記録し、批判の衰退を、批判しています。そこで批判されているのは、表現ではなく、表現の受容者である「我々」であることを、確認しておきます。

 実際、写真表現に於いては、「隣の女の子(篠山紀信)が、会ったばかりの見知らぬ男の前で大股開き(荒木経惟)してるぜ」という煽りを享受できても、現実の性愛生活に於いては、こうした煽りを実践してなおも<自己のホメオスタシス>を安定させられる者は殆どいなかったという事です。

■精神の失調を招き寄せるメカニズムの実態

 街の中を歩いたり電車に乗ったりすると周りに知らない人が大勢いますが、それは全て書割の中の影絵です。影絵は、歩行者だったり乗客だったり、学生だったり会社員だったりします。それだけじゃない。恋人や妻や夫も、多くの場合、書割の中の影絵、つまりファンタズムです。

 それを意識せずに来たのが、当時のテレクラや伝言ダイヤルやダイヤルQ2にアクセスすると、全ての人に、親しき者を含めて誰も知らない、関係性や思いがある事実が分かるのです。但し、90年代に入る迄これら出会い系には援助交際が殆ど存在しなかったことを知らなければなりません。

 そこでは、カネではなく会話だけが、性交以外に享受可能な快楽でした。そこでは互いの<なりすまし>ぶりが詳細に開示され、それゆえに<なりすまして>いる各自が謂わば許し合うことで癒されたのです。80年代後半のこうした初期出会い系の雰囲気は今日ではどこにもありません。

 だからこそ当時、「どんな人にも、知らない関係性がある」という当然の事実や「電話を取るのが1秒遅ければ別の人と繋がって別の関係性が展開したはず」という<関係の偶発性>に晒されると、自分が<関係の偶発性>の海に浮かぶ筏の如き存在だと意識され、リアリティが変性したのです。

 これまで立っていた地面が急に液状化したような感覚に襲われ、若い女であれば、男たちの誘いを断る理由を失って、不特定の男たちと関係を重ねるようになります。これは当時としては「必然的な」と言いたくなるほどよくある展開でしたが、立ち直りにはかなり時間がかかりました。

 僕自身が80年代半ばから「11年間のナンパ地獄」と自称する状態に陥ったのも、今紹介したのと同じような展開だったように思います。だからこそ、「崩れる理由」も、「立ち直りに時間がかかる理由」も、自分自身の体験としてよく分かります。では、なぜ崩れ、立ち直れなくなるのか?

 色街での作法通りの非日常的祝祭が日常に戻るためのものであるのとは違って、言葉で出来上がった「書割と影絵からなる日常」の方がむしろファンタズムであり、アンリアルだと体験されるからです。<関係の偶発性>のただならぬ揺らぎに満ちた海こそが、リアルだと体験されます。

 昨今の人類学の成果を踏まえて『LOVE【3D】』を論じた際にお話ししたように、<関係の偶発性>のただならぬ揺らぎに満ちた海こそがリアルで、定住社会の秩序を成り立たせるための<なりすまして>生きるファンタズムこそがアンリアルだ、という認識は、完全に正しいのです。

 こうした<関係の偶発性>の海に沈んだ者のうち一部が、相当な時間を経て、様々な経験を積み重ね、覚悟が定まることで、<なりすまし>という形でやっと「日常に戻れる」ようになります。但し、僕の親しかったナンパ師たちや女たちを振り返ると、「戻れる」のは少数に留まるのです。

■尾行経験を通じてナンパ地獄から回復した

 冒頭の『サブカルチャー神話解体』からの引用に、尾行のことが記してあるのは、そうした覚悟を定めるのに、尾行という経験が役立ったからです。少し説明します。僕は大学院生の当時、テレクラが切り開いてくれた、<関係の偶発性>とリアリティの反転に、強く魅了されていました。

 しかしやがて反転したリアリティから戻れなくなり、モノガミーに限らずステディの関係を作れなくなります。どんな女にも裏があるんだという感覚が、信用や信頼を難しくした面もあるけど、「書割の中の影絵」というアンリアルなイメージがコミットメントを難しくしたことが大きい。

 一つの転機は『サブカルチャー神話解体』連載中(1992年頃)の偶然の目撃譚です。当時の渋谷には、円山町とは別に桜ヶ丘の現在インフォスタワー(1998年~)が建つ付近にも小さなラブホ街がありました。当時は人通りが少なく、人目を忍ぶ人妻や芸能人たちが利用していました。

 偶々僕が出入りした際、各々ステディの彼氏彼女がいる知り合いの院生女子と院生男子が手を繋いで歩く後ろ姿を見つけ、気づかれないように尾行したところがラブホテルに入って行ったことがありました。それを誰にも黙っていましたが、僕は自分が何か判りかけていると感じました。

 家が近所だった僕は爾後このエリアを散歩コースにしたのですが、知り合いがお忍びカップルという形でホテルに消えていく姿を幾度か見ることになりました。そしてようやく「そういうことか…」と気づいたのです。謂わばもう一度リアリティがーー今度は高次にーー反転したのです。

 例えば、主婦をナンパしてホテルで過ごしていると、夕方5時の行政放送で「夕焼け小焼け」が流れてきます。主婦が急にそわそわし始め、「夕飯の買物もしなきゃいけないから帰らなきゃ」と言う。そこで僕は羨ましいという気持ちと愛おしいという気持ちに強く駆られるようになりました。

 かつては「数分前あれほど乱れていたのが、<なりすまして>夫や子の元に戻るのか」と隠微さを享受するだけでしたが、そう感じるのも、<なりすまして>戻る場が自分にないがゆえの「無意識の」羨ましさが背景にあるからだと気付き、<なりすまして>帰る存在が愛おしくなったのです。

 以降の僕は、ナンパした女とホテルに入って別れた後、時々尾行するようになりました。自宅迄は追いません。本屋やレコード屋に立ち寄り、スーパーに入ってレジ袋を下げて出て来たり、彼氏や旦那と待ち合わせて抱擁する姿を見、自分に欠けているものを確認するだけで充分でした。

 僕は85年から始まる「ナンパ地獄」から96年に離脱しましたが、その伏線が、92年からのこうした尾行実践でした。尾行が僕にとってのメンタル・メディケーションになったのです。その結果、<なりすまし>によって支えられる秩序こそがありそうもない奇蹟だ、と感じるようになりました。

■あり得たかもしれない普遍的寓話に向けた演出

 今述べた僕の経験は[リアリティ(離陸面)⇒リアリティ反転(渾沌経験)⇒リアリティの高次な再反転(着陸面)]という通過儀礼の図式で記述できますが、全く同じこの図式をなぞるように展開しているのが『二重生活』です。僕にとってはお馴染みの、しかし大切なモチーフです。

 この映画が描く「尾行が与える体験」というモチーフは、僕たちの大規模定住社会がどういうものなのか、言語的に構成された社会システム(とパーソンシステム)がどういうものなのか、を、かなり的確に描き出しています。その点で『二重生活』は鋭い作品だと言えると思います。

 惜しいのは、「関係の偶発性の海に浮かぶ、<なりすまし>が辛うじて支える奇蹟の島」の演出的な強調が足りないこと。なぜ門脇麦演じる主人公が尾行を続ける内に崩れるのか。なぜ崩れた後に再生に向かえるのか。僕のような経験をした観客でもないと腑に落ちないだろうと思います。

 本作の演出だと、隣人を尾行することで、「知らなかったもう一つの姿」に釘付けになり、好奇ゆえにジッと注視し過ぎたので、彼氏との関係を含めて自分に大切なものの優先順位ーーリアリティの序列ーーを見失い、崩れてしまった、といった理解の範囲内に、観客を留めてしまうでしょう。

 そうではなく、隣人だけでなく、「誰もが」、<なりすまし>を通じて「書割の中の影絵」として振る舞っていることに、主人公が気付く衝撃。それがもっと描かれていなければなりません。その点、主人公に尾行を勧めた指導教授の、母の看取りを巡る<なりすまし>の演出も不完全だと言えます。

 こうした演出だと、偶々指導教授自身ソフィ・カル『本当の話』に惹かれて<なりすまし>を実行していたから、学生の卒論テーマとして尾行の実践を薦めた、という特殊性の話で纏まります。尾行相手が有能なエリート編集者で如何にもモテそうだという設定も特殊性に回収されます。

 それゆえに、指導教員に看取られた母は「息子に騙されて幸せに往生した人」という受動的存在に留まり、エリート編集者に浮気された妻は「夫に騙されて不幸になった人」という被害者的存在に留まり、主人公の女子学生の彼氏も「彼女の尾行実践の秘密を知らず騙された男」に留まります。

 特殊性に回収されるのであれば、[リアリティ(離陸面)⇒リアリティ反転(渾沌経験)⇒リアリティの高次な再反転(着陸面)]という通過儀礼を通じて「関係の偶発性の海に浮かぶ、<なりすまし>が辛うじて支える奇蹟の島」が浮かび上がる、という体験が指示する普遍的寓意が、失われます。

 僕が脚本を書くなら、これを打開する鍵はリリー・フランキー演じる指導教授にある、と見ます。ラストシーンが示すように、指導教授は尾行が癖(へき)になっています。それは、かつての僕と同じで、人の<なりすまし>に癒されるからでしょう。「だから」、自分も、母を前に<なりすました>。

 寓意の焦点は、尾行ではなく、尾行体験が与える<なりすまし>観察の衝撃にあります。この衝撃にミメーシス(感染)して指導教授は尾行癖に染まり、自らも<なりすます>存在になった、或いは自らの<なりすまし>を他人に尾行されて観察されたいと思うようになった、といった設定です。

 尾行の勧めは、<なりすまし>観察の勧めであり、同時に、<なりすまし>の勧めでもあります。尾行自体が<なりすまし>だからです。現に、女子学生は彼氏に対して<なりすまして>いました。<なりすまし>観察と<なりすまし>実践を同時に勧める教授の世界観に、誰もが興味を持ちます。

 その世界観は連載でも紹介してきたジャック・ラカンの精神分析学に示されるようなものになるでしょう。であれば、教授がラカンの精神分析学を講じる姿や質疑応答の風景が描かれても良かった。というのは冗談ですが、いずれにせよ母が哀れだから<なりすました>という設定は弱い。

 単に<なりすまし>に騙されたと見える、指導教授の母や、エリート編集者の妻や、女子学生の彼氏も、実はとっくに<なりすまし>に気付いていて、自らも<なりすまして>いた、或いは自分自身にディープな<なりすまし>の経験があったーーという設定も普遍的寓意に道を開くでしょう。

■誰もが「常に既に」意識と無意識の二重生活を送る

 いずれにせよ教授は明白にキーパーソン。途中から彼の主観視座に移ってしまっても良かったと思う程です。女子学生の日常的リアリティから始まり、尾行を通じて崩れる迄は彼女の主観視座。そこで教授の回顧的主観にシフト、彼が<なりすまし>によって回復する迄は彼の主観視座。

 以上が三幕構成の「序・破」とすると、教授から女子学生へと尾行が継承されたように、教授から女子学生へと<なりすまし>が継承されるといった「急=フィニッシュ」も、反復の物語として美しいし、より説得的だったと思います。本作のままだと、女子学生の回復の理由が非説得的なのです。

 日常をマジガチのリアリティで生きる者が、匿名者の群れも親しき者達も「書割の中の影絵」であるリアルに気付いて、身を持ち崩した後、渾沌経験の中から、<なりすまし>によって成り立つ社会の奇蹟性(ありそうもなさ)に気付き、むしろ以前に増して社会とパーソンにコミットするーー。

 こうした説話論的構造は、連載でも述べた通り、日本映画の伝統的な型でもあります。今村昌平監督『赤い殺意』(1964)では、暴行された主婦が、渾沌の中で暴行犯との関係を逆転させた挙句、最後に主婦の日常に戻ります。外見は何も変わらず、誰も気付かないが、彼女は高次化しています。

 実際『赤い殺意』と比較すると『二重生活』の問題点が明らかになりますが、それはともかく、「<なりすまし>で成り立つ<ウソ社会>への気付きが与える失意の渾沌を経て、自覚的<なりすまし>を通じた回復へ」という伝統モチーフは、現実社会を批評的に観察するヒントにもなります。

 例えば[リアリティ(離陸面)⇒リアリティ反転(渾沌経験)⇒リアリティの高次な再反転(着陸面)]を経由した人間は、浅ましきウヨ豚にはならないでしょう。社会の中で言語的に構成された[敵/味方]の如きは、所詮<なりすまし>ゲームの上に成り立つファンタズムに過ぎないからです。

 無論、妻(夫)・子供・恋人・友など命を懸けて守りたい存在がいる以上、<なりすまし>を受け容れて大規模定住社会を生き、一個の一貫したパーソンとして生きる他ありません。それには言語プログラムに服する他ありませんが、言語プログラムへの従属は意識と無意識の二重性を生みます。

 映画に描かれたような二重生活を生きるか否かに拘らず、言語プログラムによって支えられた大規模定住社会を生きる人は、「常に既に」意識と無意識の二重生活を送ります。娼婦を虐げる人々を前に「罪なき者のみ石を投げよ」(ヨハネ8:7)と告げたイエスは、その事実に気付いていました。

 読者の一部は、僕の鍵概念が<ウソ社会>から<クソ社会>に変化した事実に気付いているはず。<ウソ社会>という言葉は、真実社会や本来社会の存在を想定させますが、それらは存在しません。定住社会はそもそも<なりすまし>によって支えられた<クソ社会>としてしかあり得ないのです。

 映画『二重生活』のモチーフには本来、そこまでの普遍的寓話性があります。幾つかの欠点を見るにつけても、尾行体験のエキスパートである僕に相談してくれれば良かったのになどと残念に思ったりしますが(笑)、いずれにせよ、非常に潜在的可能性のある素材を扱っていると言えます。

リアルサウンド編集部

最終更新:7/6(水) 10:10

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