ここから本文です

西郷隆盛はなぜ東北の庄内地方で愛されているのか

JBpress 7/6(水) 6:10配信

 山形県にある東北芸術工科大学で教鞭を執り始めてから1年が経過した。今年も企画構想学科の新入生の研修旅行に同行し、庄内地域を訪れた。

 昨年初めて庄内地域を訪れた時には、同じ山形県内でも随分と風土が異なるという印象を持った(庄内地域は日本海沿岸であり、東北芸術工科大学がキャンパスを構える山形市は内陸部である)。2度目ということもあり、この地域の歴史を調べてみた。

■ 現存する「日本一の大地主」の屋敷

 「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・・」

 庄内藩といってまず思い浮かんだのが、この言葉だ。「殿様」にも、もちろん力はあったのだろうが、「本間様」というのが気になる。

 戦争前まで大地主であった酒田の本間家は「日本一の大地主」と言われていた。全盛期には3000町歩の田地を持っていたというが、「3000町=約30平方キロメートル」と換算すると、現在の都内23区では「台東区」「千代田区」「文京区」を合わせたくらいの広さとなる。

 本間家の旧本邸は「二千石格式」と呼ばれる長屋門構えの武家屋敷で、酒田の中心市街地に現存している。武家造りと商家造りとが一体の屋敷が日本に現存するのは非常に珍しいという。

 ところで、この本間家の財力にバックアップされる形で、幕末から明治にかけての動乱期を乗り切っていったのが、この地を領した「庄内藩」である(「荘内藩」とも書く)。

 現在の山形県鶴岡市を本拠地とし、鶴ヶ岡城を拠点に譜代大名の酒井氏が一貫して統治を行った(鶴ヶ岡城の枝城として酒田市の亀ヶ崎城がある)。転封が一度もなかったという意味では極めて数少ない譜代大名でもあった。そのせいか、藩主・家臣・領民の結束が固かったと言われている。

■ 江戸で薩摩藩邸を焼き討ちに

 幕末、京都での動乱は江戸にも波及しつつあった。江戸幕府は庄内藩酒井家に「江戸市中取締」という重要な任にあたらせた。

 ところが江戸で、よりによってこの庄内藩(潮州家)の屯所(たむろじょ:兵士などの駐在所)に薩摩藩の浪人たちが鉄砲を撃ち込むという事件があった。庄内藩が薩摩藩に抗議したところ、薩摩の浪人たちはさらに庄内藩邸に発砲を始めた。このため、庄内藩は上山藩などとともに、江戸の三田にある薩摩藩邸を焼き討ちにした。これが有名な「薩摩藩邸焼き討ち事件」である。

 庄内藩は会津藩などと同盟を結び、薩摩藩との戦争に備えた。この時、会津藩は京都守護職が財政的にも激務だったこともあり、すでに破綻状態だった。一方の庄内藩は、酒田港を中心に全国屈指の豪商が拠点を構えており、それらの豪商の融資などによって軍の近代化が実現していた。

 この薩摩藩邸焼き討ち事件が、後の「鳥羽伏見の戦い」(戊辰戦争の幕開けとなった幕府軍と薩長軍の戦い)のきっかけとなり、また、明治政府軍による徳川家への武力討伐や、庄内藩攻撃の口実にもなってしまった面は否定できない。

■ 降伏した庄内藩に温情をかけた西郷隆盛

 明治元年(1868年)1月に戊辰戦争が始まった。薩摩藩・長州藩・土佐藩などを中心とした新政府軍と旧幕府側陣営が戦った、日本を二分した内乱である。

1/3ページ

最終更新:7/6(水) 6:10

JBpress

記事提供社からのご案内(外部サイト)

JBpress PremiumはJBp
ressが提供する有料会員サービスです。
新たな機能や特典を次々ご提供する“進化
するコンテンツ・サービス”を目指します。