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小泉今日子&二階堂ふみW主演『ふきげんな過去』はなぜ“違和感”を残す? 前田監督インタビュー

リアルサウンド 7/7(木) 13:00配信

 小泉今日子と二階堂ふみのW主演作『ふきげんな過去』が公開中だ。本作は、劇団“五反田団”を主宰する劇作家・前田司郎が『ジ、エクストリーム、スキヤキ』に続き脚本と監督を手掛けた人間ドラマ。退屈な毎日を過ごす女子高生・果子(二階堂ふみ)と、突然現れた自由奔放な伯母・未来子(小泉今日子)が織りなすひと夏の物語を描く。リアルサウンド映画部では、前田監督にインタビューを行い、本作で描かれるテーマの背景や前田監督が考える“演劇”と“映画”の違いを聞いた。

「映画監督になるまでの流れに変化が生まれている」

ーー最近、赤堀雅秋さんや戌井昭人さんなど、劇作家として活躍している方々が映画を撮ることが増えてきたように感じます。前田監督も劇団“五反田団”の主宰を務めていますが、なぜ映画を撮るようになったのですか?

前田:自主映画は別ですが、予算が付く映画は撮りたいと思っても簡単に撮れるものではないです。なので、僕らが自発的に行動しているというよりも、決定権を持っている方々の考え方に、変化があるのかもしれません。

ーーつまり、作り手側よりも映画業界の方に変化があると。

前田:僕自身も映画業界に詳しいわけではないので確かなことは言えませんが、特定の人以外にも色んなことをやらせてみよう、という風潮があるのかもしれません。いままでは助監督から監督になっていくパターンが多かったと思いますが、その流れに変化が生まれているというか。だからこそ、自主映画を撮っている監督が大作映画に突然抜擢されたり、僕たちのような違うジャンルの人間も呼び込まれるようになってきたのかなって。

ーー劇と映画では、作る過程や観客への見せ方に大きな違いがあると思います。前田監督自身はどんなところに大きな違いを感じますか?

前田:僕としては、どちらもやりたいことや面白いと感じるところに明確な違いはないです。アイデアが生まれてくる根源がどちらも一緒なので、何にでも挑戦したくなるんだと思います。当然、手段は違うので、それぞれ向き不向きを判断して作るようにはしていますが。

ーー演出面においてはどうですか?

前田:舞台を長くやっていたので、どうしても舞台を中心にして考えてしまいますが、やはり大きな違いはカメラの存在ですね。舞台の場合はお客さんの目がカメラなので、舞台上でお客さんの視点の寄りや引きをコントロールします。もちろん、照明などを使う場合もありますが、僕が行っている劇は照明をあまり使用しないので、俳優の視線や動きでお客さんのカメラを誘導しています。一方、映像の場合は、お客さんの視点を全部こっちで決めることができるので、良くも悪くもより力強くお客さんを振り回すことができます。カレーライスを箸じゃなくスプーンで食べるように、舞台と映画にもそれぞれの相性があるので、そこは大切にしています。

ーー『ふきげんな過去』は、ノスタルジーとモダンが融合している雰囲気も印象的でした。

前田:今回の作品のテーマが、境界線や中間、時間が混ざり合っている部分なので、有機的なものと無機的なものが同時に存在している場所を選びました。(撮影場所の)北品川は、高層ビルが立ち並んでいる中に、昔っぽい風景も入っているのでぴったりだなと。ほかにも、淡水と海水が混じりあっている運河とか、異なるものが混じりあってるイメージを何度も重ねていきました。川の向こうの死の世界や、海の向こうのニライカナイ(理想郷)を連想させる感じですね。主人公を女性にしたのも、お腹の中で新しい命を育むことに、過去と未来が混じりあっているような感覚を覚えたからです。

ーー本作の着想はどんなところから生まれてきたのですか?

前田:過去、現在、未来、それらは決して出会うことも交わることもない、という認識の中でみんな生きていると思います。時間を不可逆的なものとして横軸で捉えているというか。しかし、よく考えると過去も未来も現在も、すべて自分の頭の中に存在していて、それらを交えることができるんじゃないかと思い、それをそのままシナリオにしてみました。主人公の果子、母親の未来子、親戚のカナは、3人とも同一人物というイメージで進めていきました。

ーー同一人物とはどういう意味ですか。

前田:たとえば、未来子が果子の方よりも子どもくさかったり、逆に未来子よりも果子の方が大人らしい考えを持っていたりなど、それぞれ成長している部分や退化している部分に違いがある。年齢で分けるのではなく、もう少し3人の内面が混じり合っていくようなイメージで設定を考えていきました。『ジ、エクストリーム、スキヤキ』の頃は、過去、現在、未来を別々の箱にいれて3つ提示しましたが、『ふきげんな過去』はその箱を壊してすべて山積みにした感じですかね。ただ、そこはあくまで僕の中だけの話なので、観る人は自由に捉えていただければと思います。そういう設定に縛られると、そこを解き明かす意識で作品を観てしまうので。

「映画自体が日常の違和感として成り立つ」

ーー前作の『ジ、エクストリーム、スキヤキ』もですが、前田さんの作品は見終わった後にどこかモヤっとする部分が残りますよね。

前田:映画やドラマは行動の動機が明確化されがちです。でも、実際に現実で起こっている事件は明確な理由なんてよくわからないんですよ。警察が事件の概要や動機を発表するけど、本当にそんな理由なのか、と疑問に感じることも多いです。人ってどうしても物事を理解したがるから、言葉にしたくなるんでしょうけど、映画ではなんとなくわかるくらいが丁度いいと僕は思っていて、そういう部分は残すようにしてます。

ーーどこか違和感を覚える映画で、特にサトエ(兵藤公美)が背負っている赤ん坊が人形だったのも奇妙でした。

前田:僕としては、人形でもなんでも、赤ちゃんとして見てもらえればよかった。そもそも、映画に登場する人たちはすべて虚構ですよね。実際には名前も違うし、家族でもない。それと同じで人形も嘘をついています。ただ、観ている人は人形であるにも関わらず、ちゃんと赤ちゃんとして認識する。記号的になにかを解釈していく感覚って、映画だけでなく芸術全般で言えることだと思っていて、そういう違和感はわざと作るようにしています。巨大なワニが運河に住んでいるという設定も、もし現実に起きたら違和感を感じるけど、ありえなくもない話ですよね(笑)。映画の中に入り込んで追体験するのも大切だと思いますが、その映画自体が日常の違和感として成り立つような作品も必要なのかなって。

ーー「人間は言葉でできている」「死ぬか生きるかなんて言葉でしょ」など、印象的なセリフも多かったのです。セリフには前田さんの死生観などが反映されているのでしょうか?

前田:命が尽きる尽きないは絶対的なことに思えますが、実際はただの認識でしかないと思っています。たとえば死体が転がっていても、それを見ている人が寝ていると思えば、見ている人の中では生きていることになる。逆に果子の中の未来子も、未来子が目の前に現れるまでずっと死んでいたわけで。少なくとも、その人の言葉や認識の違いで物事は変化していくものだという風に、僕は捉えていますね。

泉夏音

最終更新:7/7(木) 13:00

リアルサウンド

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