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夏目漱石、新聞連載小説の斬新すぎる企画を思いつく。【日めくり漱石/7月16日】

サライ.jp 7/16(土) 7:10配信

今から102 年前の今日、すなわち大正3年(1914)7月16日、47歳の漱石は朝日新聞の次の連載小説について、ひとつの斬新な企画を思いつき編集部に提案することにした。

新聞小説は、普通ならひとりの書き手が、数か月にわたって長篇小説を書いて連載していく。そこをがらりと発想を切り換え、何人かの新進の作家に中短篇を書いてもらい、それを順繰りに掲載していったらどうか、というのだった。

これは、連載中の漱石の『心』のあとに掲載する予定で頼んでいた志賀直哉が、「どうしても書けない」と断ってきたことに対処するためでもあった。直哉の言い分は単なるわがままでなく作家としての良心に基づくものであることが察せられ、漱石としても了解し朝日の編集部にも理解を求めた。

ところが、その一方で、長篇を書ける代役が急には見つからない。

ならばいっそ、複数の書き手の作品を連ねるというやり方があっても、ひとつの趣向として読者も面白がってくれるのではないか、と考えたのである。この思いつきは、東京・早稲田南町の漱石邸に門弟や知己が集う木曜会で、門弟の鈴木三重吉たちと話をしている中から生まれたものだった。

朝日の編集部も漱石の発案を受け入れ、企画が進行していく。

このとき寄稿したのは、武者小路実篤、小川未明、後藤末雄、野上弥生子、長田幹彦、青木健作、久保田万太郎、田村俊子、里見トン、谷崎潤一郎、小宮豊隆の11人。なかなかのメンバーである。

企画の発案にも関わった鈴木三重吉は、漱石の配慮で執筆候補のひとりに入れてもらいながら、とうとう原稿を仕上げることができず、最終的には執筆陣に加われなかった。

後年、書き手としてよりも、児童雑誌『赤い鳥』の編集人として大成する三重吉の資質が、すでにして、にじみ出ている気がしないでもない。

その三重吉が書きとどめている、ある日の漱石の姿を紹介しておきたい。

その日、三重吉が東京・早稲田南町の漱石邸を訪れると、漱石は茶の間の縁側にかがみこむようにして、12、3歳の薄汚れた着物をきた近所の子供らしい少年に、英語の訳読を教えていた。漱石は胃が痛いらしく元気のない顔つきをしていたが、少年を指導する語気や態度にはちっとも面倒がる様子はなく、ていねいに教えていた。

三重吉は邪魔をせぬよう、静かに見守っていた。少年が帰ってから三重吉が、「どこの子です?」と尋ねると、漱石は微笑してこう答えた。

「どこの子だか、英語を教えてくれと言ってやってきたのだ。私は忙しい人間だから今日一度だけなら教えてあげよう。一体誰が私のところへ習いに行けと言ったのかと聞くと、あなたは偉い人だというから英語も知ってるだろうと思って来たんだと言っていた」

突然に訪ねてきた、どこの誰とも知れぬ子供に、漱石は英語を教えていたのである。三重吉は漱石のこの態度に、心底、感銘を受けたのだった。

三重吉がこののち児童雑誌の編集・発行に力を入れるようになるのは、ひょっとすると、師のこんな姿を見たことも、心の奥深くで影響していたのかもしれない。

■今日の漱石「心の言葉」
さまざまの趣向をそれぞれに凝らしている(『幻影の盾』より)

Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

最終更新:7/16(土) 7:10

サライ.jp

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