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没後100年を迎えた夏目漱石のテキストを 「都市空間」の観点から読む

Meiji.net 7/20(水) 12:42配信

没後100年を迎えた夏目漱石のテキストを 「都市空間」の観点から読む
佐藤 義雄(明治大学 文学部 教授)

2016年の今年は、文豪夏目漱石の没後100年にあたります。ロマンチシズムやエゴイズムを主題とするテキストが多い漱石ですが、“都市空間からの眺望”という観点で見ると、そのテキストは新たな表情を帯びてきます。と同時に、文学の風景によって、都市の風景に新たな表情を見出すことも文学の愉しみ方のひとつです。


◇漱石の「それから」の都市空間

 雨は小降りになったが、代助は固より三千代を独り返す気はなかった。わざと車を雇はずに、自分で送って出た。平岡の家迄附いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲る迄見送ってゐた。(夏目漱石『それから』 十四の十一)

 文学テキストを精細に読み込もうとして街歩きをしていると、東京は坂や崖や水路が多い都市であるということをあらためて感じます。地形は自然の現象に止まらず、人工の現象でもあります。
 例えば駿河台一帯は江戸初期までは山で、これを切り崩して江戸湾の埋め立てを行ったなどという歴史を知り、その地形のなごりが〈台〉という地名に残っていることがわかってきます。
 地域による風景の差異は、人の営みの歴史や文化の違いでもあります。こうした都市空間は、文学作品に大きく作用しています。

 今年、没後100年を迎えた夏目漱石の作品も、いまや古典として読まれるようになっていますが、こうした都市空間の観点から見ると、新たな表情を見出すことができます。1909(明治42年)年に書かれた小説に、「それから」があります。
 主人公の代助は明治のブルジョアジーの家に生まれ、大学卒業後も定職に就かず、実家に寄生して社会とは距離を置く生き方をしています。「高等遊民」を気取っている男です。
 その代助の友人である平岡は対照的に、大学を卒業すると銀行勤めをし、社内のトラブルに巻き込まれて辞職し、職さがしを余儀なくさせられています。平岡の妻の三千代に以前から思いを寄せていた代助は、会う機会を重ねることで、自分の思いが愛であることを確信していきます。
 男女の愛の問題や、近代人の不安と苦悩を描いた小説として捉えられている作品です。

 しかし私は、代助が平岡夫妻の住む小石川に訪ねて行くときの、代助の地理感覚と心象風景に注目しています。
 小石川の安藤坂を上りながら代助は、庶民の家が建ち並ぶ一帯を見て、庶民がささやかな金を回してようやくこじんまりとした家を手に入れ、そこで暮らしていることを資本主義の競争の致し方のない結果と考え、小石川の坂の下に広がる工場群の煙突からモクモクと吐き出される汚い煙とあいまって、見苦しいと思うのです。

 当時、小石川の旧水戸藩邸付近には陸軍工廠が建てられ、工業国を目指す日本にとっての最新工業地帯となっていました。鬱蒼とした森であった小石川の坂の一帯はスプロールされ、無秩序に宅地化されていく時期でした。
 それは、代助の実家のある青山や、代助が隠れ住むように暮らしている神楽坂の袋町とはまったく異なる空間であったのです。この、いわば異世界への“境界”が「江戸川(神田川)の橋」や「小石川の坂」であり、高等遊民を気取る代助にとっては、その境界を越えようとするたびに、不安や戸惑い、苛立ちが起きるのです。


◇都市空間には“境界”がある

 都市には様々な境界があります。坂や崖や川といった自然地形が境界となることもありますし、街道から江戸の出入り口となる場所に建てられた六地蔵や、高輪や四谷の大木戸のように、人の手によって人工的に造られた境界もあります。
 境界は、“こちら”と“あちら”の両方を抱え込んだ曖昧な空間ですが、そこで風景は一変します。人は、この境界を越えようとするとき、不安やためらい、戸惑い、苛立ちを覚えます。
 その逡巡や葛藤が、文学の生まれる場のひとつとなっていると、私は思っています。

 漱石の門下生の一人であった芥川龍之介の「羅生門」は、完璧といえるほど典型的な境界のテキストです。舞台設定の“門”からして都の境界記号そのものです。
 そこに下人が現われます。盗人にでもならなくては生きていけない“あちら”へ、下人は境界を越えるべきか否か葛藤し、逡巡します。
 生きていくためには境界を越えなくてはならないのは明白です。彼は、老婆の着物を剥ぐという行為を通して、境界を越えます。境界を突破するために必要だった“通過儀礼”が行なわれたのです。

 この小説は、人間のエゴイズムの観点から論じられることが多い作品ですが、極めて典型的な境界のテキストともいえるのです。「羅城門」の「羅」には包むという意味があります。城廓都市を包み込む門なのですが、この羅城門を、芥川は生を包む「羅生門」としました。
 城=都市ではなく、突き破るしかない生を包む門へと変換したのです。技巧的な作家である芥川龍之介の真骨頂が現われたテキストです。

 境界記号は、文学テキストの都市の風景の中に様々な形で現われます。同じく芥川のテキストである「蜜柑」では、トンネルがうす汚い少女が聖小女へと変貌する境界となり、泉鏡花の「夜行巡査」は、四谷の谷の貧民たちが英国大使館に象徴される近代空間に越境し排除されるテキストであり、永井荷風の「ぼく東綺譚」では、大川(隅田川)が夢の女が住むユートピア的異界との境界となっています。

 ひたすら快適に設計施工され、人々が現実に生きた痕跡が跡形もなく消去されていく現代都市空間ですが、文学作品は、そこに様々な境界が存在していたことを思い起こさせてくれます。
 愛しい女性に会いに行くはずの代助が苛立ちを覚えた小石川の坂を、境界の空間記号という視点で見てみてください。そこには均一的な都市の顔ではない、“生きられた都市”の表情が見えてくるはずです。

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最終更新:7/20(水) 12:42

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