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千葉ロッテ2010年胴上げ投手・伊藤義弘、右腕の復活ストーリーは最終段階に

ベースボールチャンネル 7/21(木) 11:50配信

長いリハビリを経て

 両手を高々と突き上げた。

 2010年11月7日、日本シリーズ第7戦。延長12回まで、もつれたドラゴンズとの激戦を制したマリーンズの最後のマウンドには伊藤義弘投手がいた。2回を投げて打者6人、無安打、無失点。ナゴヤドームで躍動をし、チームを日本一に導く活躍をした。あれから6年。あの日の胴上げ投手は二軍の本拠地・ロッテ浦和球場にいる。怪我との戦いの日々を乗り越え、復活に向けた大きな一歩を踏み出している。

「やっと投げることができたという感じですね。この前、実戦で10カ月ぶりに投げましたけど、順調です。いい手ごたえを感じています」 

 2015年9月24日のイースタンリーグ・北海道日本ハム戦以来となるマウンドに戻ってきた。7月4日のチャレンジマッチ・フューチャーズ戦(ロッテ浦和)。2番手として登板し、1回を被安打1、1奪三振の無失点に抑えた。長いリハビリを経ての実戦復帰。34歳ベテランの表情は明るかった。

 痛みは突然、やってきた。最初は右手の薬指と小指に痺れを感じた。最初は疲れかと思い、時間が経てば治ると思っていた。しかし、痺れは次第に深刻なものになっていった。朝起きると、指が曲がったまま動かなくっていた時もあった。私生活でもズボンのポケットに手を突っ込まないと辛くなった。

 診断の結果、右ひじから来るもので、骨棘除去術が必要と告げられた。全治まで6カ月。年齢を考えると厳しい選択だったが、復帰を信じ、右ひじにメスを入れた。

「もう、なってしまったものは仕方がない。そう自分に言い聞かせました。焦る気持ちを抑えて開き直って、やれることをやろうと黙々と取り組みました」

支えになった家族の存在

 石垣島で行われた一、二軍合同キャンプ。伊藤は一人、黙々とリハビリのメニューをこなしていた。チームメイトたちがグラウンドで元気に全体練習をこなす横で、静かに復帰に向けての地道な作業を繰り返した。嘆いても、ため息をついても、なにも始まらない。やれることをやるしかない。そう自分に言い聞かせてそこから約半年かけて体を作り直した。一歩ずつ、確かな手ごたえをつかみながら、前に進んだ。孤独な戦いの中での支えは妻であり、6歳の長男、5歳の長女、2歳の次男の子どもたち、家族の存在だった。

「やっぱり、投げることができないし、うまいことリハビリが進まない事もある。だから、イライラするときはありました。でも家に帰って、子どもの無邪気に笑っている顔を見ると、オレがそれではダメだなあと思いました。本当に助けられました」

 長男は、胴上げ投手になった2010年生まれ。あの日は妻とスタンドから観戦をしていたが、もちろん0歳だった本人に記憶はない。父として、しっかりと物心がついた今、もう一度、一軍のマウンドに上がる姿を見せてあげたい。その想いが大きなモチベーションとなっている。

「妻も気を使って毎日、食事を作ってくれた。炎症に効く食材を使った料理とか、いろいろと勉強をして栄養を意識したものを作ってくれた。本当に感謝をしています」

 孤独な日々だったが、妻と3人の子どもはいつも伊藤に寄り添ってくれた。家族の支えがあったからこそ長い月日を経て、普通にピッチングができる状態にまで戻した。そして7月4日。ついに復帰のマウンドに上がった。

「手ごたえはあります。最速は142キロだったのですが、それはシュート。自分の得意としている球で、球速を出せた。まだまだ、出せる状態にもっていけると思う」

 復帰戦ではストレート、シュート、スプリットを試投。スライダーこそ投げなかったものの、公式戦復帰に向けて確かな手ごたえを掴んだ。MAX152キロの剛速球にはまだ少し慎重だが、「もう少しで150キロには戻せる感触がある」と前を向く。

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最終更新:7/21(木) 16:02

ベースボールチャンネル

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