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横浜駅の定番「シウマイ弁当」の崎陽軒には、社員全員が習得している特殊スキルがあった!

HARBOR BUSINESS Online 7/30(土) 16:20配信

◆ローカルなのに圧倒的実力、崎陽軒のシウマイとシウマイ弁当

 崎陽軒は横浜名物「シウマイ」やそれをメインに据えた「シウマイ弁当」の製造販売でお馴染みの企業です。中華料理店やイタリア料理店等も経営していますが、なんと言っても、崎陽軒と言えばシウマイとシウマイ弁当ですよね。

 横浜本社地下工場、横浜都筑工場、東京江東工場の3カ所の工場で1日12時間で作られるシウマイの数は約80万個、毎日15入りを1箱食べても明治維新くらいかかってしまう数字です。また、シウマイ弁当の1日平均販売数は今や2万近くあり、純粋な駅弁利用以外を差し引いても、日本で最も売れてる駅弁ということになります。

第118期決算公告:5月26日官報74頁より

当期純利益:3億9700万円

利益剰余金:122億6600万円

過去の決算情報:詳しくはこちら http://nokizal.com/company/show/id/1448114#flst

 ただ、これだけ売れているシウマイと崎陽軒ですが、全国で売れる商品かというとそうではなく、西日本では食べたことの無い人や知らない人も多いです。これは駅弁の賞味期限が8時間ほどであるためで、シウマイ弁当が車内で買えないのもこのためです。今回はそんな今や横浜のソウルフードとも言える、シウマイとシウマイ弁当を中心に、崎陽軒の歴史を眺めてみたいと思います。

◆横浜駅内で飲み物や軽食を扱う売店からスタート

 崎陽軒の創業は1908年、横浜(現桜木町)駅の4代目駅長だった久保久行が退職後、横浜構内の営業許可を得て、売店で牛乳やサイダー等の飲み物と餅や寿司を販売したのが始まりです。なお、崎陽軒の「崎陽」は久保の出身地である長崎の漢文風の美称に由来します。

 1915年に現在の場所に横浜駅が移転すると、後に法人化後の初代社長となり「シウマイ王」と称されることになる、野並茂吉が支配人に就任。1915年には駅弁の製造を開始するなど、少しずつ事業規模を拡大していましたが、1923年に関東大震災が発生します。

 震源に近かった横浜は町中が瓦礫の山となり、崎陽軒の社屋も全壊しましたが、茂吉は社員と力を合わせ、10日後には営業を再開、横浜駅のホームでカレーライス等を売り、復興に向け市民を元気付けました。しかし、崎陽軒は社屋の再建等で多額の借金を抱え、経営的にはピンチに陥ります。

◆東海道の強力ライバル達に対抗できる横浜名物を作れ

 しかも、当時の横浜は今と違って人口50万人にも満たない、東京の手前の地方都市の一つに過ぎず、例えば駅弁を売っても下りの客は東京駅で購入しており、上りの客ももうすぐ東京に着くので、購買意欲が薄い状態でした。

 茂吉はこの状況を打開するために、小田原の蒲鉾、沼津の羽二重餅、静岡の山葵漬け、浜松の鰻といった東海道の名物に匹敵するような名物を横浜に作ることが必須だと考えます。

 そこで注目したのが、まだ華僑の利用が中心で一般にはさほど知られていなかった横浜中華街で、突き出しとして提供されていた「焼売」でした。焼売は美味しい上に汁も出ないので、折り詰めにも適しておりチャンスはありましたが、駅の売店で売るには大きな問題があります。それは冷めると味が格段に落ちるということでした。

◆蒸したてが美味しい焼売を冷めても美味しくするという難問

 蒸したての美味しさこそが売りである点心の焼売を、冷めても美味しいものにする。その難しい課題を解決するため、招聘されたのが中華街の点心職人、呉遇孫です。呉は1年をかけて試作と試食を繰り返し、冷めると臭みの出る豚肉に、一晩水にかけて戻したホタテ貝柱とそのエキスを練りこむことで、見事にその課題をクリアします。

 ようやく漕ぎ着けた会心の一作でしたが、栃木出身で訛りのある茂吉が「シューマイ」と上手く発音できず「シーマイ」と発音していたのが、却って本場の発音「シャオマイ」に近いということで、最終的に焼売は「シウマイ」と名付けられました。ただ、これには「うまい」という言葉を含んでいたからという説もあります。

 ちなみに、呉は自分の仕事について周囲に教えたがらない職人気質であったため、 呉が退職したり引き抜きにあった場合に同じ味が作れなくなるリスクがあり、あらかじめ元の調味料などの重さを計っておいて、使い終わった後にもう一度計量してどのくらいの調味料を使用したのか会社側でも調べていた、という生き馬の目を抜く当時のベンチャーらしいエピソードも残されています。

◆1954年にもう一つの看板商品「シウマイ弁当」が登場

 さて、このような苦労の末に、1928年に念願の横浜新名物シウマイを発売、そのシウマイに「横浜蒲鉾」「酒悦の福神漬」という人気商品を加えた、売れ筋のラインナップで崎陽軒の経営はようやく軌道に乗ります。

 一方で、駅の売店からスタートしたこともあり、駅弁にも強いこだわりを持ち続けていた崎陽軒は、太平洋戦争が終わると、後の2代目社長・野並豊の陣頭指揮の下、もう一つの看板商品の開発に着手します。それが1954年に発売されたシウマイ弁当でした。

 開発にあたっては、駅弁の定番形式「幕の内弁当」をベースとしながらも、崎陽軒ならではのオリジナリティを出す、そして戦後間もない時期のお腹を満足させるため、800kcalを確保する、というのがテーマとして設定されます。

◆幕の内弁当の定法を守りながら、見事にオリジナリティを出す

 研究の末、完成した初代シウマイ弁当と中身はというと、主役のシウマイ4個に加えて、ブリの照焼、玉子焼き、横浜蒲鉾、エビフライ、酒悦の福神漬、筍煮、昆布佃煮、そして御飯というラインナップでした。御飯は今と同じように俵型の型押しでしたが、ゴマと小梅は付いていなかったようです。ちなみに、シウマイ弁当の御飯は冷めてもモチモチしていて美味しいですが、これは釜や炊飯器ではなく、木の桶に高熱の蒸気を直接注入して、蒸しながら炊き上げる『蒸気炊飯方式』をとっているためです。

 幕の内弁当の厳密の定義というものは特に存在しませんが、大まかな定義として、御飯に対して汁気のないおかずを少しずついろいろ詰め合わせるのが一般的であり、特に焼き魚・玉子焼き・蒲鉾・揚げ物・漬物・煮物が代表的なおかずとされています。それを踏まえて、上記の中身を眺めてみると、幕の内弁当の定法を守りつつ、見事にオリジナリティが加えられていることが分かります。

 また、シウマイ弁当といえば、経木の折の弁当箱も特徴的ですが、経木の折は吸水性に飛んでいるため、ご飯のモチモチ感を持続させるだけでなく、ほのかに移った木の香りが楽しめる魅力があります。個人的には本格的に食べ始める前に、蓋の裏についた米粒を剥がしながら食べるのも、プロローグっぽくて好きです(笑)。

◆何から食べる?横浜駅名物「シウマイ弁当」のおかずの変遷

 なお、その後の現在のシウマイ弁当に至るまでのメジャーな変化にも触れておくと、主役のシウマイはオイルショックの1974年の大幅値上げに伴って、4個から5個に増えており、この年エビフライはホタテフライに、椎茸の甘煮が加わっています。1988年から1997年まではレンコン炒めが入っていましたね。

 発売時にブリの照焼だった焼き魚は、1963年にマグロの照焼に変わり、すっかりシウマイ弁当の定番化してます。定番といえば、鶏の唐揚げの登場は1992年と意外に遅いです。逆に発売当時の売りだった福神漬は1981年に姿を消しています。また、現在でも蒲鉾の厚さを7mmから8mmにしたり、昆布の産地を変えたりといった、マイナーチェンジはしばしばひっそりと行われているそうです。

 あと、価格面ですが、発売時の価格は100円となっており、1954年当時の物価を見てみると、コーヒー50円、煙草30円、 新聞購読月330円、はがき5円、かけそば30円、ビール125円等々なので、感覚的には今とさほど変わらず、手頃な値段だったのではないかと思われます。

◆崎陽軒の社員のみが全員マスターしている特殊スキルがある?

 ところで、横浜と東京で販売されているシウマイ弁当では容器に違いがあることにお気づきでしょうか。実は横浜工場生産分が掛け紙を紐で結わえているのに対して、東京工場生産分は掛け紙と同じデザインの紙の蓋を被せるスタイルが取られています。

シウマイ弁当は御飯詰め以外は殆どが手作業だそうですが、実は中でも手がかかるのがこの掛け紙を紐で結わえる作業で、工場には紐掛けの職人がいて、中には1時間で300個を結わえるほどの達人もいるそうですが、それでも横浜分を賄うだけで限界なんだそうです。

 それどころか、春と秋の運動会シーズンや連休等で大量の出荷がある際は、一般職の社員が工場に入って社員総出で結ぶこともあり、そのため、崎陽軒の社員は研修で必ず「シウマイ弁当」の紐掛けをマスターするそうです。いざとなれば、社員なら全員出来るとかちょっと格好いいですね。

◆税務署が「シウマイでビルが建つはずがない」と疑った躍進の立役者

 こうして、誕生したシウマイとシウマイ弁当の2枚看板により、崎陽軒は大きく躍進、1955年には横浜駅の東口に3階建ての自社ビルを建設、それは料理場が外からでも見れるように総ガラス張り、日本初の丸いエレベーター、屋上に上がるとビアガーデンができる展望台を擁したまさにシウマイビルで、税務署から「シウマイでビルが建つはずがない」と調査が入ったというエピソードが残っているほどのものでした。

 この躍進を実現したのは、もちろんシウマイとシウマイ弁当の商品力があってのことでしたが、それだけでは前述した、横浜駅の販売面での立地の悪さを覆すには不足でした。そもそも、一度は食べてもらわないと美味しさが伝わりませんしね。それらを販売や宣伝の面で大いに支えた2枚看板が、キャンペーンガールの草分け的存在「シウマイ娘」と崎陽軒のシンボルマーク「ひょうちゃん」でした。

◆元祖キャンペーンガールか、会いに行けるアイドルか?シウマイ娘

 1950年に登場したシウマイ娘とは、赤いチャイナドレス風の衣装と、ミスコンテスト受賞者と同じタスキを身につけた女性が、手籠にシウマイを入れて「シウマイはいかがですか~」と車窓から売り歩いたもので、登場するなり評判を呼び、横浜駅の名物となりました。

 年齡制限に加えて、容姿端麗、高身長(女性平均148cmの時代に158cm以上)であることもシウマイ娘の条件だったので、実際売り子でありながら、ちょっとしたご当地アイドルだったわけですが、1952年には当時の流行作家、獅子文六が毎日新聞に連載した港ヨコハマを舞台にした小説「やっさもっさ」に、プロ野球選手・赤松太郎とシウマイ娘・花咲千代子が列車の窓を通じて恋を語る設定が持ち込まれると人気は更に加速、1953年には佐田啓二(中井貴一のお父さん)と桂木洋子(音楽家黛敏郎の奥さん)で松竹大船から映画化もされ、崎陽軒のシウマイは全国にその名を轟かせることになります。

 余談ですが「一度でいいから見てみたい、女房がヘソクリ隠すとこ、歌丸です。」でお馴染みの桂歌丸師匠の奥さん、冨士子さんはシウマイ娘だったそうなので、この『女房』はかつてシウマイ娘だったということになりますね(笑)また収録の際に弁当に使われることも多いので、芸能界にもファンの多いシウマイ弁当ですが、クレイジーケンバンドが「シウマイ娘」という曲を出していたりします。

◆時代を代表する絵師達が描いた、様々な「ひょうちゃん」が存在

 さて、かつてのシウマイ娘と並ぶ崎陽軒のシンボル「ひょうちゃん」についても触れておきましょう。ひょうちゃんが登場したのは1955年、元々シウマイの折に入っていた陶磁器製のひょうたん型の醤油入れに、フクちゃんで知られる漫画家、横山隆一が崎陽軒の社員に会った際に「目鼻をつけてあげよう」ということで表情を描いて「ひょうちゃん」という名前を付けたのが始まりです。いろは48文字にちなんで48種類作られたひょうちゃんは『ひょうちゃん全国漫遊記』という小さなしおりとともに封入され、人気を集めました。

 その後、1988年には創業80周年を記念して、ミスタードーナッツやカルビーポテトチップスでお馴染みのイラストレーター原田治を起用、80種類のひょうちゃんが描かれました。100周年の記念の際にも、サントリーのアンクルトリスが有名な柳原良平が起用されています。ちなみに、原田治が描いたひょうちゃんの中には、酒を飲んでいたり、ネクタイをしていたり、かつて広告に登場した際には妻子が登場したりしているので、ひょうちゃんもそこそこ年は取っているようです。

◆シウマイ弁当の掛け紙に見る、横浜の歴史と進化

 シウマイ娘やひょうちゃんの活躍もあって、見事に事業拡大に成功した崎陽軒は、その後も1965年に「真空パックシウマイ」1987年には、孤独のグルメでもお馴染み「ジェットシウマイ」を開発するなど、積極的に新商品や新業態にチャレンジ、現在に至ります。余談ですが、真空パックを開発したのも実は崎陽軒で、商標登録していなかったため、今では一般名称化しています。

 一方で、販売面では、北海道から九州まで、全国のスーパー等にも出店していたこともありますが、基本的に横浜でしか手に入らない「真のローカルブランド」を目指すために撤退、その代わりに、仕出し・配達サービスを整備し、横浜市内の各種学校や事業所・会社等では、行事などの際に食事としてシウマイ弁当が配られることも珍しくないほど、より横浜という地域に深く密着する戦略が採られています。そういった横浜密着戦略を象徴するような存在が、下記のシウマイ弁当の歴代の掛け紙なのかもしれません。

初代(1954~1959年)

緑地をベースに横浜港をイメージしたもの。

2代目(1960~1963年)

初代を踏襲し緑地に、当時の横浜の名所である横浜三塔、三溪園、掃部山公園の井伊直弼像などが描かれています。

3代目(1964~1994年)

黄色地に、龍と水晶が描かれて現在の掛け紙に近いデザインです。水晶の中には横浜マリンタワー、氷川丸、前述したシウマイショップ(ビル)が描かれています。

4代目(1995年~現在)

3代目のデザインをベースに、水晶の中には、崎陽軒本店をはじめランドマークタワーやコスモクロック、パシフィコ横浜などのみなとみらい地区の名所が足されました。

◆シウマイ弁当の聖地?1日2000人が来店する横浜中央店

 最後に、そんな横浜に密着したソウルフード、シウマイとシウマイ弁当が最も売れる店舗をご存知でしょうか。それは、横浜駅の中央通路にある「横浜駅中央店」で1日の平均来客数は2000人、シウマイ弁当の売り上げは600個に及ぶそうです。

 今や巨大ターミナルとなった横浜駅の中央通路にある立地もさることながら、この横浜中央店が特に人気なのは、すぐ近くにある本社工場から1時間ごとにシウマイ弁当が出荷されるためで、運が良ければまだ温かいシウマイ弁当が買えたりします。冷めても美味しい工夫が施されてきたシウマイ弁当ですが、お近くに行かれた際は是非、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。

決算数字の留意事項

基本的に、当期純利益はその期の最終的な損益を、利益剰余金はその期までの累積黒字額or赤字額を示しています。ただし、当期純利益だけでは広告や設備等への投資状況や突発的な損益発生等の個別状況までは把握できないことがあります。また、利益剰余金に関しても、資本金に組み入れることも可能なので、それが少ないorマイナス=良くない状況、とはならないケースもありますので、企業の経営状況の判断基準の一つとしてご利用下さい。

【平野健児(ひらのけんじ)】

1980年京都生まれ、神戸大学文学部日本史科卒。新卒でWeb広告営業を経験後、Webを中心とした新規事業の立ち上げ請負業務で独立。WebサイトM&Aの『SiteStock』や無料家計簿アプリ『ReceReco』他、多数の新規事業の立ち上げ、運営に携わる。現在は株式会社Plainworksを創業、全国の企業情報(全上場企業3600社、非上場企業25000社以上の業績情報含む)を無料&会員登録不要で提供する、ビジネスマンや就活生向けのカジュアルな企業情報ダッシュボードアプリ『NOKIZAL(ノキザル)』を立ち上げ、運営中。

<写真/Hajime NAKANO>

ハーバー・ビジネス・オンライン

最終更新:8/1(月) 16:00

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TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

北朝鮮からの脱出
北朝鮮での幼少時代、『ここは地球上最高の国』と信じていたイ・ヒョンソだったが、90年代の大飢饉に接してその考えに疑問を抱き始める。14歳で脱北、その後中国で素性を隠しながらの生活が始まる。 これは、必死で毎日を生き延びてきた彼女の悲惨な日々とその先に見えた希望の物語。そして、北朝鮮から遠く離れても、なお常に危険に脅かされ続ける同朋達への力強いメッセージが込められている。