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石井ふく子さん「眼前で奪われた級友の命。本当なら私が撃たれていた」

週刊女性PRIME 8/8(月) 11:00配信

私は戦争をドラマには描けない

  TBS系ドラマ『ありがとう』『渡る世間は鬼ばかり』など数々のヒット作を世に出し、現役テレビプロデューサーとして活躍する石井ふく子さんの戦争体験は、敗色濃厚な1944年から始まる。

「私は18歳で東京女子経済専門学校附属高女に通っていたんですが、勤労動員で、錦糸町の軍需工場で時限爆弾の装置を作っていました」

 その工場で石井さんは副班長を務める。空襲警報が鳴ると、先頭に立ち隊列を防空壕に誘導する役目だった。

「ところが、私が席をはずしたときに空襲警報が鳴ったことがあって、先頭に立てずに防空壕に向かったんです。先頭には班長、私は最後列でした」

 防空壕へ向かう途中、突然、敵機が低空飛行で機銃掃射をしてきた。前を走っていた班長ともう1人が撃たれて亡くなってしまったのだ。

「本当だったら、私が撃たれていたはずなんです。いちばんつらかったのは、亡くなった班長ともう1人の子の家に、先生と一緒に悲しい報告に行かなきゃならなかったこと。行って、ただただ頭を下げるだけでした」

 その体験と悲しみは石井さんに深い影を落としてきた。

「だから、私は戦争をドラマには描けない。本当の戦争はまったく違う。それでもやはり何かを感じてもらいたいと思って、『女たちの忠臣蔵』を制作したんです」

 '79年放送のドラマ『女たちの忠臣蔵~いのち燃ゆる時~』は、戦う男たちではなく女たちにスポットを当てた。

「男は戦地に行って、残るのは“女、子ども”。忠臣蔵もその犠牲というのがすごくあったと思うんです」

花火が嫌い「音がそっくりなんです」

 東京大空襲で石井さんが両親と住んでいた家は焼失。空襲以来、石井さんは花火が嫌いになったと言う。

「音がそっくりなんです。橋田壽賀子先生は花火が好きなんですね。熱海の橋田さんの家に呼ばれて、花火の最中、ずっと下を見ていたら“あんた寝てんじゃないわよ。花火は上よ”って言われた。自分の体験を話したら誘われなくなりました」

 大空襲のあと、石井さんは山形に疎開する。

「代用教員として小学3年生を担任したんですが、私のしゃべる東京弁がわからないし、私も方言がわからない。だから全部拒否されました」

 そこで終戦を迎えると両親が迎えに来てくれた。しかし、東京の家はない。

「父がたまたま親しかった俳優の長谷川一夫先生にばったり会って、先生の借りていた家の離れを使わせてもらえることに。そこで、両親は離れに、私は長谷川先生の姪2人と母屋の6畳ひと間に同居しました。そのうちの1人、長谷川裕見子さんが後の船越英一郎の母親になるんですよ」

 そして石井さんは、長谷川先生のすすめで新東宝のニューフェイスに挑戦し合格。

「女優として2年たって、やはり向かないなと思い、新聞広告の女子社員募集に応募しました。日本電建という建築会社で、最初は歌舞伎町営業所の庶務として入社しました。でも、私の履歴書に興味を持ってくださった社長が本社宣伝部に呼んでくれたのです」

 当時はラジオ全盛時代。日本電建は急成長の会社でラジオ番組のスポンサーだった。

「宣伝部でいろんな企画を立てました。TBSラジオの月金の帯で『人情夜話』という番組をやったり」

 やがてTBSから誘いがあり、二足のわらじの時代を経て、テレビドラマのプロデュースを手がけるように。

「みなさんに支えられてここまで仕事させてもらって。私の代わりに亡くなった班長さんはじめ、いろんな人に助けていただきました。戦争は悲惨でとても嫌なものだけど、戦争という体験があったからわかることもあります。私のテーマは家族ですが、これからもそういうことをもっと表現していきたいですね」

最終更新:8/8(月) 11:00

週刊女性PRIME

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