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「狩りの時代」の発見の経緯 『狩りの時代』 (津島佑子 著)

本の話WEB 8/9(火) 12:00配信

「差別の話になったわ。」

 母がそう言ったのは二〇一五年の暮れ。夏前から新作に取り掛かっていた。

「面白い作品になってると思う。でもまだ後半が荒いから書き直さないと。」

 肺がんが見つかってちょうど一年が過ぎ、二つ目の抗がん剤は効果がなく、腎臓と膵臓への転移が見つかっていた。声はしっかりしていたが呼吸が苦しそうで、見ているこっちが辛くなった。私は恐る恐る聞いた。

「連載はいつからなの。」

「四月からでどうですかって聞かれたけど、五月にしてもらった。四月だとまだ体調が万全じゃないかもしれないから。」

 年末に承認されたばかりの新薬による治療を年明けから受けることになっていた。その薬が効けば、がんと共存しながら、また前のような生活に戻ることができる、そう信じていた。一月からの投与で、薬の効果が出始めるのが二月として、そこから落ちてしまった筋肉を取り戻し、作品に集中する環境を整えるのに二、三カ月はかかるだろう、という計算だった。早く書き上げてしまったほうがいいという言葉が出かかった。執筆以外の仕事を断ってでも、自分の作品を優先してほしい。でも言えなかった。新薬の効果を私も信じたかった。まだ治療中なのだ。手の施しようがないわけではない。黙り込んだ私を見て、母が言った。

「もったいぶってないで、早く書いたほうがいいかしらね。」

 私は少しだけ救われたような気持になって、「そうだね。」と答えた。

 二〇一一年の夏に大阪に移ってから、私は差別について考えることが多くなった。福島での原発事故で、地方に迷惑施設を押しつける差別構造をいやというほど見せつけられ、自分の立ち位置を問い直さずにはいられなかった。人種差別を扇動する街宣が私が暮らす街の駅前で二週間にわたって行われ、危機感を募らせてもいた。母も同じ思いだったのだろう。顔を合わせるたびに、差別のことが話題にあがった。世間にはこれだけ差別があふれているのに、差別する側の人間にはその自覚がない。自分は差別をしない人間であると多くの人が思っている。私にも覚えがある。弟を亡くしたあと聞かされた「母子家庭の子どもは死亡率が高い」という噂。子どもが生まれたばかりの男友達が言った「母親が働いている子どもは非行に走りやすいから、妻が仕事を辞めることにした」という言葉。どれも私から見れば差別だけれど、言った側はそれが差別だとは思っていない。もちろん私も気がつかないうちに、誰かを傷つけたことがあるに違いない。あらゆる紛争に差別が関係していることを考えれば、なんとかして差別を克服しなくてはならないと思うのだが、自覚すらされていない感情をどうしたら乗り越えられるのか、答えを見つけられずにいた。

 二〇一六年に入り、新薬の投与が始まった。待ちに待った投与だった。けれど母は肺炎を起こし、入院。二月初めには一時退院を許されたものの、再び体調が悪化。二月十五日に再入院。そしてその日、早くて一、二週間、もっても一、二カ月という、まったく予想外の余命宣告を聞かされた。「まだ書きかけの作品があるんです。」という私に、主治医は「もう書くのは難しいと思います。」と言った。確かに、私の目から見ても、母は作品を書ける状態ではなかった。意識が朦朧としていたし、言葉も不明瞭になっていた。作品を完成させてあげられない。その現実を受け止めることができなかった。新作に取り掛かったばかりのころ、冗談めかして言った母の言葉が頭をかすめた。

「あんたには全部話してあるんだから。間に合わなかったらあんたが書いてね。」

 書けるわけがない。母が十二歳の時に他界した兄のことと、ヒトラー・ユーゲントの話だということは聞いていた。でもそれがどんな風につながるのか見当もつかない。具体的なエピソードや作品への想いも聞いたはずなのに、適当に聞き流していたせいか、詳しくは思い出せない。手の施しようがなくなってからでも、十分な時間があると信じ込んでいたことを悔いた。

 そしてその日から三日後、母は息を引き取った。

 母の身体を引き取って家に帰ると、母の書斎の机には、プリントアウトされた新作の原稿が積まれていた。ところどころに赤が入っている。目を通さなくてはと思いつつ、母の友人たちが部屋の片付けを始めてくれていたので、そのどさくさで見失わないように、箱に入れて書庫の奥にしまい込んだ。葬儀の準備をしながらも、作品のことが気にかかっていた。母が最期に書いた作品をなんとか世に出したい。でも、まだ完成していない状態のものを人目にさらして母は喜ぶだろうか。古くから知っている編集者にも意見を聞いた。その人はその場で深く考え込み、慎重に案を出してくれた。たとえば、いつか全集が出るときに付録として発表する。あるいは電子書籍の形で無料配布する。それならば、未完の作品でも母の名前を傷つけずに発表できるだろう。確かにそれは最善の方法だと思えた。でも、それで本当にいいのかわからない。いつまでもぐずぐず悩み続けていた。

「残された原稿を読ませてほしい」と、文藝春秋の担当者の方から連絡をいただいたのは、葬儀も済んで一息ついた頃だったと思う。二月初めに一時退院したときに、作品はほとんど完成していると、母がメールを書き送っていたという。ほとんど、といってもどの程度なのかわからない。とにかく読んでみると約束して電話を切った。

 書庫にしまい込んだ原稿を取り出して確認すると、途中までしか打ち出していない章があるようだったので、まずはパソコンに残されたデータを探して、一通り原稿を印刷し直した。データの最終更新履歴は二月十一日。息を引き取る一週間前だった。三九度を超える熱を薬で押さえながら、一日のほとんどをベッドで過ごしていた頃だ。集中して執筆できたはずがない。それでも、作品を読み返し、手を加えようとしていたのだろうか。私がひとりで看病することに限界を感じ、介護の申し込みなどで走り回っている間にも、母はひとりこつこつと作品に向かっていた。母にとって、言葉を発し、求め続けることは、生きることそのものだったに違いない。

 私は夢中で作品を読んだ。読み進めるうちに母が話していたことが次々とよみがえる。ダウン症だった兄との思い出。大家族の空気。人々の視線。記憶をたどる手触り。こうしてひとつの作品に編み上げられて、初めてその意味が理解できる。

 それは、出会ったことのない差別の話だった。

 描かれているのは、差別とはなにか、いや、人間とはなにかという問いだ。どうしたら差別を乗り越えられるかと言っているだけで差別をわかったつもりになっていた。目をそらしてきた心のなかを突きつけられて、人間の複雑さを思い知らされた。この作品をいま、差別のなかで生きる人々に届けなくてはいけない。そう思い決めて、私は担当者の方に原稿を渡した。幸いなことに、作品を読んだ出版社の方々も、これはひとつの完成した作品であるとして、最善の方法で刊行できるよう考えてくださった。

 こうして、「狩りの時代」が津島佑子の最後の作品として刊行されることに決まった。

 いつも慎重に推敲を重ねる人だったから、おそらくまだまだ手を入れるつもりだっただろう。これを完成と言ったら不本意かもしれない。でもきっと、母はこの刊行を喜んでくれていると思う。いま、この時代に、母が聞き届けようとした声を形にできて、私も胸をなでおろしている。刊行のためにご尽力いただいた方々に心から感謝し、津島佑子の言葉がひとりでも多くの方に届くことを願ってやまない。

解説:津島 香以

最終更新:8/9(火) 12:00

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