ここから本文です

亡き恩師に誓う1勝。元プロ監督、市尼崎・竹本修の挑戦

webスポルティーバ 8/9(火) 11:21配信

「『イチアマ(市立尼崎)が優勝をしたら、球場の外でそっとオレを胴上げしてくれよ』という小橋先生の約束を果たせないままでした。すみません、必ず甲子園に行きます。これからも真夏の太陽のように、空の上からイチアマの野球部を見守っていてください」

【写真】最速152キロ右腕、横浜のエース・藤平尚真

 市立尼崎は、昨年の夏は姫路工業、秋は明石商業にともに3回戦で敗れた。それがこの夏、下馬評を覆す快進撃で、尼崎市制100年のメモリアルイヤーに33年ぶり2度目の甲子園出場を決めたのだ。抽選会では主将の前田大輝が選手宣誓を引き当て、見事、大役を務め上げた。

「なんですかねぇ……。見えない力に背中を押さえているような、不思議な感じが続いています」

 兵庫県大会の戦いのなかで、何度も小橋の顔が浮かんできたと竹本は言った。

「野球はやってみなわからんぞ」

 監督としてバトンを受け継いだときに小橋からもらった言葉のひとつだ。竹本も頭ではわかっていたし、自身の現役時代も同様の言葉を何人もの指導者から聞いていた。しかし、小橋の言葉は竹本の耳に残った。

 小橋は23歳で市立尼崎の監督となったが、自身は軟式テニス出身。本格的な野球経験はなかった。それが赴任時に校長から「君は色が黒くて元気そうだ。野球部の監督をせぇ!」というひと言で高校野球の世界に飛び込み、甲子園までたどり着いた。

「野球はやってみなわからんぞ」の言葉は、小橋の生き様そのもののように思えた。昨年、亡くなってからあらためて小橋のことを考える機会が増えた。現チームも突出した選手はいないが、小橋ならチームをどう作っていくか、選手の力をどう引き出していくかということを自問自答した。

 竹本は市立尼崎のOBではない。熊本出身で高校は野球の名門・九州学院。高校2年の春にチームはセンバツ出場を果たしているが、投手の主戦は同級生の園川一美(元ロッテ)で、このとき竹本はメンバー外だった。

 中京大でも公式戦の通算成績は1勝5敗。長身左腕でストレートに勢いはあったが、ムラっ気のある気性も災いし、成績が安定しなかった。ところが、面白半分で受けたプロテストで巨人と阪急に合格。阪急を選択し、思いがけない形でプロの世界に飛び込むことになった。

 当時、阪急がファンのために月1回発行していた『THE BRAVES』という機関紙がある。その1987年1月号に新入団選手の紹介記事があり、そこに中島聡、藤井康雄、本西厚博らと一緒に、いかにも鼻っ柱の強そうな表情で並ぶ竹本の姿がある。寸評には「好きな言葉は負けてたまるか」とあり、次に目指すものは「プロでの成功しかない」と書いてある。

 しかし、プロ生活ではチャンスをつかみきれず、一軍登板は1試合のみで90年に引退。その後、球団職員として働いたあと、取得していた教員免許を生かし、教職の道へ進んだ。

 武庫工業で体育教師として採用され、サッカー部の顧問を務めた。以前はプロ野球経験者がアマチュア資格を取得するには教壇に10年立つことが必要だったが、その後5年に短縮され、97年からは2年になった。その第1号が竹本だった。

 この武庫工業時代に小橋と出会った。小橋は、2006年に上梓された『ゼロから始めた甲子園』(新風舎)で、最初に会った竹本との印象についてこう書いている。

1/3ページ

最終更新:8/9(火) 11:21

webスポルティーバ

記事提供社からのご案内(外部サイト)

Sportiva

集英社

Sportivaムック
11月10日発売

定価 本体1,389円+税

フィギュアスケート特集
『羽生結弦 未来を創る人』
■羽生結弦 インタビュー、エッセイ
■羽生結弦 フォトギャラリー