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無念の銅メダルでも、笑わない中村美里が最後に微笑んだワケ

webスポルティーバ 8/9(火) 14:20配信

 中村美里にとって北京、ロンドンに続く3度目の五輪は、またしても「金」に届かず、銅メダルに終わった。

【写真】リオ五輪、メダル獲得で笑顔の選手たち

「ロンドンが終わってすぐには、リオを考えることはできなかったし、この舞台に立っているとは想像もできませんでしたが……目標を達成できなくて、やっぱり悔しい」

 ロンドンが終わった直後に中村は左膝前十字靱帯の再建手術を決意し、1年以上をリハビリに費やした。NTC(ナショナル・トレーニング・センター)などでリハビリを行なっている間に、同じように五輪を目指す他競技のアスリートと数多く知り合い、親交を深めた。それが「視野を広がることになった」と本人や家族、所属の三井住友海上のコーチ陣は声を揃える。柔道家として五輪を目指す環境がいかに恵まれているかを再認識し、もう一度、金メダルにチャレンジする気持ちが高まった。

「すごく人としての幅が広がった。4年間やってきて、本当によかった。もちろん金メダルは獲りたかったですけど、最後の3位決定戦に勝てたから」

 谷亮子が女王として君臨してきた48kg級の新星として、講道館杯を制したのは2005年、渋谷教育学園渋谷高校1年生の時だった。足技で面白いように相手を転がし、勝ち上がっていった。無邪気に振る舞ってもいい年齢なのに、やたらと冷めた口ぶりが印象に残る16歳だった。

 父・一夫氏が振り返る。

「小学6年生のときに、講道館杯に連れて行ったんです。すると『オリンピックに出たいと思ったら出れんじゃん』と簡単に言ったんです。『コイツ、何言ってんだろう』と思いましたが、本気で目指すなら僕らも気を引き締めて、美里の結果に一喜一憂するわけにはいかない。親が喜んでいる姿を見せたら、本人も満足しちゃいますから。だから中学2年生で全中に勝ったときも、『オリンピックを目指しているなら、日本一になったからといって、ヘラヘラ笑っていたらダメだぞ』と伝えました。それが、彼女が笑わなくなったスタートなんです」

 五輪を意識したその講道館杯を16歳で制した中村は、順調に代表への階段を上っていった。しかし、大人の身体になるにつれ、手の指まで細くなるような減量苦を味わうようになり、北京五輪の前年に52kg級に転向した。

 苦渋の決断ではあった。当時、こう口にしたこともある。

「(谷亮子から)逃げたと思われるのがイヤだった……」

 北京では当時まったく無名だった安琴愛(北朝鮮)と準決勝で対戦し、パワー柔道に技が出ず、「指導」のポイント差で敗れた。ロンドンまでの4年間は、北京の悔しさを晴らすことだけが目的だった。しかし、ロンドンでも初戦で安と対戦し、先に奪われた「技あり」のポイントを取り返せず、わずか1試合で畳を去った。

 直後、手術を決断したのも、父・一夫さんのアドバイスが決め手だった。

「引退後の人生を考えたら、治しておいた方がいい。あのままでは大好きなスノーボードだってできないわけですから」

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最終更新:8/9(火) 14:20

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