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「オールド左翼」の起源と「新左翼」の条件 --- 松本 徹三

アゴラ 8/9(火) 16:30配信

8月2日付の「さようなら オールド左翼」(http://agora-web.jp/archives/2020627.html)が多数の方に読んで頂けている様なので、今回は前回書ききれなかった過去の経緯等を、もう少し補足させて頂きたい。

「オールド左翼」を生んだ時代背景

突然の終戦によって茫然自失した日本国民の多くがマルクス主義に強く惹かれた事は前回の記事でも述べたが、「天皇制打倒」を叫んだ共産党にはさして人気は集まらず、産業国営化による計画経済への移行を標榜した社会党が多くの国民の人気を集めた。(共産党が当初都市部よりも農村で革命を起こそうとした事も災いした。農村は都市部に比べてそれ程疲弊していなかったし、終戦後もなお天皇を崇拝する気風が強かったので、活動家達は最後まで手応えを得る事ができなかった。)

結果として、終戦後4ヶ月を経て改正された新選挙法によって行われた総選挙では、自由党(当初は鳩山一郎が総裁だったが、彼がその直後に公職追放になった為、総裁は吉田茂に交代)が140議席を獲得して第1党になったが、これに続いては、幣原喜重郎を総裁とする旧体制翼賛系の進歩党が94議席、社会党が92議席と、ほぼ拮抗した勢力となった。(共産党は5議席。無所属が81議席)因みに、その約二年後の総選挙では、社会党は衆院で143議席を獲得して第1党となり、片山哲内閣が成立している。

当時のGHQ(米軍総司令部)の民政局はニューディーラー達で占められており、彼等は集中排除法の徹底に情熱を燃やしていたので、経済運営については自由党内閣の吉田茂や石橋湛山を警戒し、社会党により親近感を持っていた。この為、当時の共産党や社会党の幹部は、日本で労働運動が更に激化して、選挙を経ずして実質的に社会主義政権が発足しても、GHQは黙認するだろうという見通しを持っていた形跡がある。

当時の世相を顧みると、国民の何よりの関心事は食料の確保であり、多くの人達が、田舎に行ってなけなしの衣類を食料と交換するという「竹の子生活」を余儀なくされていた一方、東京では大規模なデモとストが頻発し、さながら革命前夜の様相を呈していた。1946年に11年ぶりに復活したメーデーでは、50万人が皇居前広場に集まったとされ、その直前には、NHKは「聞け、万国の労働者…」で始まるメーデー歌(曲はかつての軍歌の焼き直し)の歌唱指導を、連日繰り返し行っていた。

当時これだけ多く人達の期待を背負った社会主義とは、一言で言えば「企業の国営化による計画経済の遂行」であり、また、一般の私企業においては「労働組合による経営」だった。現実に、東芝や日本鋼管など幾つかの会社では、一時的にそれまでの経営者が放逐されて労働組合が経営の任に当たった事があり、読売新聞や東宝などの「言論や文化を担う会社」でも、同じ事が起こっている。

この様な流れは、1946年の後半から1947年の始めにかけて最高潮に達する。163万人を傘下に収めた共産党系の「産別会議」に属する、炭鉱、電力、新聞、放送などの各組合は、一斉に激しい賃上げ要求を掲げ、これに全ての公官庁と国鉄、私鉄、電電公社などの労組を加えたゼネストが企画されていた。これによって吉田内閣を打倒し、社会党と共産党の相乗りによる「人民戦線内閣」を一気に樹立する事が、密かに構想されていたのである。

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最終更新:8/9(火) 16:30

アゴラ

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