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本屋大賞『羊と鋼の森』をプロの調律師が読んでみた 『羊と鋼の森』 (宮下奈都 著)

本の話WEB 8/11(木) 12:00配信

 本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』は、著者の宮下奈都さんが長年お世話になってきた調律師さんの言葉がきっかけで着想した物語です。

 プロの調律師は、『羊と鋼の森』をどう読んだのか、河合楽器製作所に勤務するお2人に感想を伺いました。岩倉康之さんは、家庭や学校のピアノを調律した経験が長く、村上達哉さんはショパンコンクールのピアノの調律などを手がけながら最高峰のピアノの開発に携わっています。本の感想だけでなく、日々の調律師の仕事や調律師に必要な才能、先輩調律師から主人公・外村へのアドバイスなども伺ってきました。

――まずは『羊と鋼の森』の感想をお聞かせください。

岩倉 非常に分かりやすい文章で、読み入ってしまいました。主人公の外村が周りの先輩に支えられながら成長していく姿が、自分が会社に入って最初の赴任先で仕事を覚えた頃にだぶって、懐かしい気持ちになりました。

 それから、調律師の日常をよく取材してあるなと思います。調律の当日になってお客様からのキャンセルという話が出てきますが、実際にも意外とあるんですよ(笑)。

村上 本当に、よく調律師に聞き取りをされていて、嬉しい本ですね(笑)。よくぞ書いて下さったみたいなところがあります。

 今の社会にないものがこの小説の中にあるというふうに感じました。ものすごくデジタルな社会になっていて、情報がテレビやSNSでどんどん広がっていく世の中で、ピアノというアコースティックでクロマティックなものと向き合う調律師の世界をゆったりと取り上げてくれている。

 調律師の立場からすると、いろんな場面がちりばめられていて、それぞれ深掘りし過ぎず、表現もすごく比喩的で、分かりやすく書かれていると思いました。受け取る側がいろんな感情で取れる。だから、いろんな人に受け取ってもらえるんだなあと感じました。

岩倉 調律師の仕事は、どちらかというと表面的な仕事ではなくて裏方の仕事になります。それでもいい音楽を作っていく上で非常に重要な役割は果たしていると思って仕事をしています。お客様が、調律によって音が変わるんだとか、調律の必要性とか、そういうところに関心を持っていただいて非常にありがたいと思いました。

 この小説が話題になってから、お客様の方から「あの、しばらく調律していないんだけれどもぜひやってください」という連絡もいただきました。本を読んで、みなさんいろいろ考えるところがあるのだと思います。

村上 「森」というテーマが最初にあったのですけれども、それが非常に印象深かったです。その中からピンポイントでいろんなものをクローズアップしていくのが、ピアノと調律師がひとつになっていく過程と似ていたんですよね。

 昔、あるピアニストと仕事をしているときに、「この音がピアノ全体感の中の宇宙の中にあるひとつの星みたいな音が欲しいんです」と言われたことがあって(笑)。その時に、それは何を表現したらこの音の中に彼の言いたいことが伝わるんだろうと思ったのと一緒なんですね。森の中の何かの表現が感じられるとか、匂いが感じられるという音の表現が、すごく素敵に感じられました。

――今日は、一般には馴染みのない調律師の仕事についても教えていただきたいと思います。特にメーカーの社員ということで、街の楽器店に勤務する外村ともまた違った面があると思います。入社以来、どのような仕事をして来られたのですか?

岩倉 私は5年前までお客様のお宅やピアノの先生のお宅、学校、公共施設のホールなどのピアノを調律していました。現在は全国に214名いる河合楽器の調律師に対する技術研修や、現地からの情報を収集してピアノの品質向上に努めています。

――主人公の外村のようにご家庭を回って調律する場合、どんなところに仕事の難しさがあるのでしょう?

岩倉 ひとことで「調律」と言われますが、その仕事は主に3つに分かれています。アクションと呼ばれる中の機械を調整する「整調」、実際に音を合わせる「調律」、音色(おんしょく)を整える「整音」。音だけを合わせて終わりということがないんです。全てが互いに関連性がありますから、バランスを考えての作業が、なかなか大変です。

 それと、本の中にも出て来ますけれども、音に関する表現が人それぞれにあります。硬い音、やわらかい音、明るい音、暗い音、伸びる音、沈んでゆく音など、千差万別です。お客様とのコミュニケーションをして、確認しながら音を作っていくというのは、非常に難しい部分であり、重要な部分だと思います。

村上 そうなんですよ。音を作る作業と調律の組み合わせを言葉で表現するのは非常に難しいのですが、この本ではすごくいい表現で、いろんな表現で書いてくれているので、ああ嬉しいなあと思います。音の表現もすごく素敵な感じです。

 それから、高校生の双子の姉妹に対する主人公の思いが丁寧に描かれていますよね。ピアニストたちといかに付き合っていくのかというのも、私たちの非常に重要な仕事の一つになっています。

――村上さんは、どんなお仕事をされていますか?

村上 私は入社以来、ずっとShigeru Kawaiピアノ研究所にいまして、カワイの最高級機種であるフルコンサートピアノ SK-EXというピアノを作る仕事をしております。たとえば、ショパンコンクールのような国際コンクールに出かけていって、我々が開発したピアノに世界のピアニストたちがどういう反応をするか、聞いているお客様がどういう反応をするかということを見聞きした経験をもとに、さらに改良、組み立てていくというサイクルを、ずっと何十年もやっています。

 昨年放送されたNHKドキュメンタリー「もうひとつのショパンコンクール~ピアノ調律師たちの闘い~」にも、実は私もちょっと映っています。カワイのピアノを使ったピアニストさんは残念ながら優勝できなかったけれども、「表現するのにあのピアノはすごく性能がいいのね。とても面白い音がする」とか、興味を持っていただけることが多ければ多いほど、私たちとすればありがたいと思います。

――NHKの番組は話題になり、何度も再放送されましたね。そういう真剣勝負の場で調律をする場合は、どんなことが勝負の分かれ目になるのですか?

村上 小説の中にあったように、ホールのどの位置に置いたら一番ピアノが性能をよく発揮するか、キャスターの位置をどう向けたらよくなるか、そういうものの積み重ねの判断力が大事です。ピアノをよくするには劇的なことというのはありません。そこは実は、国際コンクールもいわゆるコンサートも同じです。

――コンクールのような時間も限られて、みんなが緊張している中で、それぞれの一流のピアニストの想いを理解するためにはどういうことに気を配られるのでしょう?

村上 ピアニストの細かな行動を見ています。普段、彼らがすごくリラックスして冷静な時の表情、それから体の動きなどを見ておきます。ピアノセレクションというピアノを選ぶ時間があるのですけれども、その時に、カワイを選んでいる人たちの弾いている姿勢だとか表情、また指の形とか角度とかという演奏法などを見ておきます。

そうすると、ラウンドで演奏したときに「あっ、今これを要求してきている」というのが見えてくるので、その後にきちんと話をする。とにかく、ピアニストとのコミュニケーションが大事です。

――なぜ、調律師という職業を選ばれたのでしょうか?

岩倉 やはり、音楽が好きだからですね。子供のころに行ったコンサートでフルートの音色(おんしょく)に魅せられまして、中学高校と吹奏楽部に入りましたし、今でも浜松市内のアマチュアのオーケストラでフルートを演奏しています。調律師の仕事も、吹奏楽の先輩に調律をやられている人がいて、勧めてくださったんです。

――外村はピアノを弾いた経験がありませんでしたが、それは調律師の世界では珍しいことではないんですか。

岩倉 そうですね。私も、ピアノを習ったことはありません。当社の場合はカワイ音楽学園調律学科という直営の学校があります。平成23年度からはピアノ調律技能士という国家資格の検定制度が出来て、当社の技術者は資格取得を目指して勉強しています。調律師になった後も、先ほどお話ししたように本社での技術研修がありますので、とても恵まれていると思います。

――村上さんはなぜ、調律師になったのですか?

村上 私は音楽大学を卒業しているのですが、家庭の事情があって、ピアノを初めて習わせてもらったのが高校を受験するときなんですね。専攻は声楽でしたが、ピアノを弾くことは大好きでした。でもすぐにはピアノを弾く技術は身につかないものですね。大学を卒業するときに、演奏家の道を進むのか、先生になるかなど迷っていたところ、河合楽器がコンサートチューナーを目指す人材を集めているという話を聞いたのです。

――入社してみて、いかがでしたか?

村上 頭の中では、もう一級の調律師のようにチューニングハンマーを持って勉強を始められるのかと思ったら、想像していた仕事と全然違いました(笑)。このピアノ研究所は、ピアノを手作業で作っているところなんですね。木工職人とか、塗装する人とか、部品を作る人とか、いろんな人がいます。入社すると、「全部のピアノ作りを知りなさい」と言われて、丁稚奉公みたいなものからスタートしました。木のペーパー掛けから始めなさいとか、のこぎりを挽くところから始めなさい、と言われるままに、こつこつと色んな知識を身につけてきました。最近になってやっと、今のコンサートの仕事をする時に役立っているんだろうなあと実感しまして(笑)。そういう意味では、いろいろ教育を受けさせていただいたという感謝の思いでいっぱいです。

――今“こつこつ”という言葉が出ましたけれども、外村の先輩調律師である板鳥さんも、仕事の心得として「こつこつ、こつこつです」と言っています。

村上 はい。そうですね。何事も経験したことを自分の腕の中に入れていかないと、調律師は成り立っていかないので、そういう意味で「こつこつ」が大切です。急にひとつのことをやってもほんとに上手くはならないので、長い時間をかけていろんなことを学んでいかなくてはいけない。非常に忍耐強い人じゃないと出来ないと思います。

 ピアノの部品は88鍵(けん)の鍵盤があり、それぞれに十数か所の調整部分があると考えると、1000か所以上もあるわけですね。それを全部ひとつひとつ調整しないといけないので、気の遠くなるような作業を、正確に、しかも短時間でやらなければなりません。非常に大変な作業で、どれかひとつ見逃すと、それが、ずっと気になってしょうがないんですね。この調整をしなかった、あれをやり残した、ということがないようにいつもパーフェクトな状態で全部を知っていないといけません。

――調律師に必要な才能とは何でしょうか?

岩倉 感性的なところが非常に重要になってくると思うので、やっぱりセンスの問題。それから、技術面では常にやっぱり向上心を持っていないといけないと思います。

 あとは、この小説の中でも、「好きっていうのが一番大事だよ」というようなところがあったと思うのですけれども、私もその通りだと思います。

村上 まず必要なものは、愛情を持つ、あるいは持てる人であることだと思います。現代社会って、ちょっと、愛情だとか温かみというものが希薄になっているような気がするのですけれども、そういうものをずっと長い間持ち続けられる人、それが才能かなというふうに思います。

――では、調律師に必要な努力とは?

岩倉 ピアノに限らずいろんな音楽を聴くというのもひとつだと思いますし、他の技術者の話を聞いたり、やり方を学ぶというのもひとつの方法だと思います。

村上 感覚を研ぎ澄ます能力を持つこと、ですね。それは、ピアノの仕事じゃなくていいのです。自分の好きなことを仕事の中に取り込んでいければいい。たとえば、私は料理したり食べることが好きです。すると、この調味料ひとつ入れたらどんなふうに変わるかな、と考えるようになりますね。そして、トライしたら反応がどうだったかということを必ず確かめますよね。そういう感覚を、調律の世界の中に取り込んでいけばうまくいけると思います。それくらい、興味のあるものを深く掘り下げることが大切かなと思います。

――最後に、主人公の外村にアドバイスをお願いします。

岩倉 小説の中の通りまずこつこつやっていくということと、何にでも挑戦していろいろやってみるということが調律の中でも重要ではないかと思いますので、まあ失敗があれば先輩が助けてくれますので、その点は当社の若い技術者にも同じことを言いたいと思っています。

村上 調律師としては素敵な歩み方をしていると思いますので、努力も必要でしょうけれど、ピアノへの愛情を絶やさず、ずっとほんとにこつこつ一歩一歩あゆんでいただければ、目指すところはおのずと近くなってくるのかなと。

 それを認めた板鳥さんが工具を与えてこれからステップアップしてねと暗に伝えるシーンがすごく温かく見えて、私も育ててくれた師匠のことを思い出しながら、そういうふうにステップアップしていくんだなと感じました。

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最終更新:8/11(木) 12:00

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