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夏目漱石、逗留中の宿にて妻との電話がトンチンカン。【日めくり漱石/8月12日】

サライ.jp 8/12(金) 10:36配信

今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)8月12日、伊豆・修善寺の菊屋旅館に逗留中の43歳の漱石は、夢の如く生死の中ほどで日を送っている気分だった。胆汁と酸液を1升ほど吐いて、ようやく人心地つくといった状況だった。

胃潰瘍治療のため東京・内幸町の長与胃腸病院にひと月半入院したあと、さらに静養のためこの地にやってきて7日目を迎えていた。初日の一晩だけは、別館の「西村家貸切」の札の貼られた一室に調整をつけて泊まらせてもらい、翌日からは本館の3階の部屋へ移っている漱石だった。

「俺にとっては、湯治より胃腸病院の方がはるかによかった」

到着以来、あまりに体調がすぐれないため、ついそんな愚痴めいた言葉も頭を過(よぎ)る。夜、横になっていても、ひと息ずつに胃の痛みを感じ、顔や背中から脂汗が流れ出るのだった。

修善寺には、仕事の関係で門下生の松根東洋城もやってきていて、漱石の部屋へ出入りしていた。宮内省勤務の東洋城は、同じ菊屋旅館(別館)に滞在中の北白川宮の御用掛を務めていて、日中の勤務が終わったあとは、師弟ふたりして俳句をひねったり歓談したりして過ごそうというのが、当初からの計画であった。

そのこともあって、漱石は東京から硯や筆などを収めた硯箱を持参したらしい。筆者は以前、取材に訪れた菊屋旅館で、この漱石遺愛のものと伝えられる硯を見せてもらったことがある。縦14・、横8・という小ぶりのつくり。いかにも旅先への携行に似つかわしい。東洋城が『先生と病気と俳句』という一文に記したところによれば、東洋城は、この宿で漱石がつくった数句の俳句を《無理に願って書いて貰った》という。漱石は体調のすぐれぬ中、東洋城の願いに応え《苦しいのをこらえて巻紙に書かれた》というから、この小ぶりの硯が実際に活用される場面があったのだろう。

さて、修善寺逗留7日目のこの日、東洋城は師の体具合が芳しからぬことが心配になり、念のため東京にいる漱石の妻・鏡子に手紙を書き送った。漱石の病状を知らせ、「いつでもこられるように支度をしておいて下さい」と告げる内容だった。

漱石は、東洋城がそんな手紙を出したことを知ると、「この天候では無理して動かない方がいい」と思い、すぐに取り消しの電報を打たせた。ここ数日、東海から関東、東北にかけて豪雨が襲来し、川があふれ洪水に見舞われ、あちこちで浸水し、鉄道も不通になったりする被害が出ていたのである。

混乱したのは鏡子だった。東洋城の手紙が着く前に、手紙の内容を取り消す電報だけが届いたのだから、無理もなかった。事情が呑み込めず、鏡子はやむなく隣家の山田三良宅へ行って電話を借り、修善寺の菊屋旅館に連絡をした。すると、取り次ぎを経て、いきなり電話口の向こうから、

「もしもし」

という声が聞こえてきた。それは紛うことなき、聞きなれた夫の声ではないか。

「本人が電話に出られるくらいなら大丈夫だわ」

咄嗟に胸の内でそう安堵しながら、鏡子は病状や水害の状況を漱石に尋ねていった。ところが、どうも漱石の方は妙に他人行儀な語り口で、すっきりしないもの言いをする。

「何を気取った話し方をしているのかしら」

鏡子は、そんなふうに思いながら、話を続けていた。

あとでわかったことだが、漱石は「東京のお宅から」と取り次がれて受話器を手にしたものの、電話が遠かったせいもあって、相手は鏡子ではなく、鏡子の妹か誰かだと思い込んで話をしていたのだった。

漱石が大量の吐血をするのは、この2週間ほど後のことである。

■今日の漱石「心の言葉」
あんまり他人行儀ですわ(『それから』より)

Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

最終更新:8/12(金) 10:36

サライ.jp

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