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偏愛読書館自然の大内院でバーに潜る 『今夜、すべてのバーで』 (中島らも 著)

本の話WEB 8/13(土) 12:00配信

 終電でノロノロと家に帰ると、倒れるように寝た。痛飲によって自律神経は破壊されており、夜中に幾度も目が覚める。外では激しい雨音が鳴りはじめ、それに怯えて浅い眠りを繰りかえす。幾度目の目覚めのときか、部屋に光が差し込んでいた。夜半から続く風はびゅうびゅうとボロ屋を叩き続け、部屋の隅に積まれた本が、開けっ放しの窓から入った雨粒を吸い込んでぐっしょりと湿っていた。その本よりもぐったりとしている私は、開けっ放しの窓なぞ気にも留めず、もう一度眠ろうとする……。が、尿意を我慢できなくなってきて、仕方なく布団から這い出てトイレに入った。朦朧としていて膝がころりと崩れ、大量の小便が便器の外に散る。やれやれな朝である。どんなものかと外に出てみれば、風雨が地面を濡らすなか、脇を締めて傘をもつ人たちが駅に向かって歩いている。子供もいた。八時前くらいだろうか。こんな雨の日も日々をこなす人々を眺めていると、万年無職で本日も予定皆無な私としては、漠然とした不安がこみ上げてくると同時に、ちょっとした優越感を感じてしまう。そしてまた部屋に戻り、布団に潜り込んで惰眠を貪る……。

 悪夢で飛び起きた。嫌な汗で布団はぐっしょりと濡れ、昨夜の痛飲を思い出して自己嫌悪に陥る。激しい雨音が陰鬱さに拍車をかけた。この惨状に、生と死の境界線に幾度もたってきた立派な山男としてひとつ言い訳をさせてもらうならば、この国の生きるためのハードルの低さであろう。下界ではいくら酩酊してもまず無事に朝を迎えられるし、地面にへどをまく人生で良ければ肝硬変で死ぬまでなら生きられる。安全で平和で、不景気ながらに食うだけならそこまで困らないこの国のおかげで、私は人として正しく生きる意思を失ったのだ。と、己の抑制の利かなさを棚にあげ、ニート特有の社会が悪い論に結論をすげ替えたところで、はて、そういえば、自然の最奥にいる私はもう少しましな気もすると、思った。刹那主義でもなく、明日の朝ぐらいは無事に迎えたい欲求はあるので、厳しい自然環境にいるときなら、必要に迫られて生きるための努力を合理的にこなすのだ。思えば、こんな大雨もガダルカナルでは日常だった。

 二〇一五年九月、谷に入って九日目、テントを叩く雨粒の音にへきえきしながら、四隅に溜まった水をコップで掻き出し、出発の準備のために外にでた。濡れ鼠になってガタガタ震え、何故、こんなところに来てしまったのかと後悔をし、滑る滝を登り、激流を泳ぐ。少ない貯金を切り崩してまで登る人跡未踏の先には、素寒貧での情けない生活が待っている。はて、もし、ここにくる資金を全額風俗につぎ込んでいたとしたならば、瞬間的とはいえいくらか人生を豊かにできたはずだ。なんとかこの谷でロマンチックな経験をして元を取らなければ……。そう思いながら絶壁を登り降りするなぞし、もやもやと歩いた。すると、空からすっと雲が引いていき、谷が明るくなる。森と川のせせらぎ、ピヨピヨと鳴く小鳥たち、ブヒブヒと走る猪豚……、この広いジャングルにホモサピエンスは私だけだ。谷を独り占めしているのかと思うと、なんとなく高貴なことをしている気もする。そうだ、この雰囲気ならば元が取れる。私は大慌てで衣類を脱ぐと、右手に唾液を垂らした。そして陰茎を摩擦した。茜色の血管を力強く浮かべる陰茎は、ぐっと膨らんだかと思うとビクリと上下に動き、先端から白色の粘液を飛び出させる。粘液は美しい円弧を描いて宙を舞い、ふんわりと音を立てずに鈍色の水たまりに着水する。水たまりには小さな波紋が広がった。

 私はふっと溜息をつき、大自然との情事の余韻に浸りながら、薪を集めて火を灯した。パチパチと音を鳴らしながら烈々と炎が燃え上がっていく。そして全裸のまま、鞄から一冊の文庫本を取り出した。中島らもの『今夜、すべてのバーで』だ。作家として駆け出しのころのらもさんの、アル中病棟での生活を書いた私小説だ。読書が苦手な私だが、らもさんの優しい文体は酸素の薄い高所でも精読でき、ヒマラヤなぞにもよくエッセイを持っていったものだ。その大好きならもさんの作品の中でも、これほど繰り返し読んだ本はないだろう。酒を知らなかった子供のころは、この本の内院へと深く飛び込むことはできなかったが、今ではアルコール依存の症状ごと丸ごと見事に共感できる。そして恐ろしいことに、アルコール依存の恐ろしさをこれでもかと書いてあるにも関わらず、読めば読むほど琥珀色の液体が飲みたくなるのだ。このときも、読んでいるうちに未踏の谷を登って最高峰に向かう壮大っぽい計画がどうでもよくなってしまい、途中で計画を放り投げた。らもさんの本を手に日本でバーボンを飲むことが、あのとき一番やりたいことになってしまったのだ。

 ◇ ◇

『今夜、すべてのバーで』 (中島らも 著) 講談社

文:宮城 公博

最終更新:8/13(土) 12:00

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