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「大谷翔平からもう1度ホームランを」盛岡大附を甲子園に導いた二橋大地が追いかける夢

ベースボールチャンネル 8/13(土) 6:50配信

大谷撃ちの背景

 2012年夏、花巻東の大谷翔平投手(現日本ハム)は岩手大会準決勝の一関学院戦で160km/hを計測するなど3季連続の甲子園出場が期待されていた。そこに立ちふさがったのが、打倒花巻東、打倒大谷翔平を掲げ打撃改革に取り組んできた盛岡大附だった。

 冬場に関口清治監督が東北福祉大の先輩である金沢成奉氏(現明秀学園日立監督)に打撃指導を依頼。光星学院で坂本勇人内野手(巨人)らを育ててきた同氏の指導により、選手たちの打撃技術は上がった。その中でも顕著な成果をみせたのが二橋大地内野手だった。それまで高校通算本塁打は10本だったが、春先から夏場にかけて30本近い本塁打を量産。満を持して大谷に立ち向かった。

 そして運命の時が訪れる。0-1で迎えた3回、二橋は大谷が投じた高めのストレートを振り抜くと、レフトスタンド後方に飛び込む特大の3ランを放った。一部では「ファウルではないか」とも囁かれたが、三塁塁審は大きく手を回した。

 この本塁打などで盛岡大附は花巻東を5-3で下し優勝。甲子園では初戦で立正大淞南に敗れたが、高校最後の試合を憧れの地で終えた。

大学2年での挫折

 大学進学は熱心に声をかけてくれた東日本国際大へ進学。福島県いわき市に本拠地を置く同大は南東北大学野球連盟に所属しており、注目度は決して高いとは言えない環境下で、「全国大会で活躍するしかない」と目標を高く持ち、日々の練習に励んだ。だが、自身が初めて出場した2年春の全日本大学野球選手権では静岡大と九州産業大を相手に無安打に終わる。

 どこか「自分さえ良ければいい」という気持ちがプレー面でも表れるようになっていた。「調子に乗っていて、人間として未熟でした」と二橋が振り返るように、姿勢面で緩みが目立ってきた二橋を見かねた仁藤雅之監督は戦力ダウンを承知で、二橋を秋季リーグのメンバーから外し、最後までベンチにすら入れさせなかった。

「辞める寸前まで行きました。でも自分から野球を取ったら何も残らないと思ったし、Bチームで頑張っている選手を見ていたら、腐っている場合じゃないと思いました」と踏みとどまり、3年春のリーグ戦を前にようやくAチームのメンバーに復帰した。

 二橋は「今こうして野球ができているのも、あの頃のおかげ。人間として大きく成長ができました」と話し、仁藤監督も「手を抜かなくなりましたし、“俺はうまいんだ”みたいな驕りはなくなりました」とうなずく。

 3年春の全日本大学野球選手権では二塁打3本を放ち、4年春には同選手権で本塁打を放つなど、ともに初戦敗退に終わったものの武器である長打力を見せつけた。

大谷からもう1度本塁打を

「大谷は今あんなに活躍していますし、また同じステージに立ちたいという気持ちはあります」と二橋は大谷と対峙した夏を振り返りながら話す。来春の卒業後は強豪社会人に進むことが有力となっており、そこからプロ入りを目指ししている。

「“待ってろ大谷!”みたいな気持ちはある?」と聞くと「あります」と即答した二橋。あの本塁打は二橋の野球人生を語る上で欠かせないものだが、まだそれを一生の記念にするつもりは微塵もない。


二橋大地(にはし・だいち)……神奈川・瀬谷ボーイズから盛岡大附へ進学し、3年夏に甲子園出場。東日本国際大では1年秋からレギュラーを掴む。176cm85kg、右投右打。


高木遊

ベースボールチャンネル編集部

最終更新:8/13(土) 21:16

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