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「ヒグマの親分」に導かれた甲子園。クラーク国際が踏み出した一歩

webスポルティーバ 8/13(土) 18:20配信

 札幌円山球場のベンチから大声が聞こえたら、“その人“だと思って間違いない。選手よりも大きな声は、緑に囲まれた球場内にひときわ響く。

【写真】夏の甲子園に通信制が出場したのは初めて

 大声が聞こえるベンチに目を向けると、その声の主があっちへ行ったり、こっちへ行ったり。右へ左へウロウロしては、また、大声で吠える。そんなことを繰り返しているうちに、いつしか地元の記者がその人のことを「ヒグマみたいだ」と言うようになった。

 ついたあだ名は、“ヒグマの親分“。その監督が率いる強力打線は“ヒグマ打線“といわれるようになった。

 その人とは、駒大岩見沢の佐々木啓司監督。監督として、春夏通算11回の甲子園出場。1993年のセンバツではベスト4進出を果たしている。甲子園通算7勝は、北海道内の現役監督では最多だ。言いたいことを言う性格。勝利への執念が強いあまり、ときには審判の判定にまで吠えてしまうことも......。その強烈な個性こそ、親分の名にふさわしかった。

 その人が、8年ぶりに甲子園に帰ってきた。駒大岩見沢が廃校になったのが2014年3月。4月から野球部が新設されたクラーク記念国際に移ってたった2年3カ月で、慣れ親しんだ聖地にたどりついたのだ。

 クラーク記念国際といえば、夏の甲子園は初めての出場となる通信制の学校として話題だ。野球部員のカリキュラムは週5日、毎日4コマの授業を受ける全日型だが、実態が明らかではないために、「野球ばっかりやっているのだろう」「選手を集めているのだろう」などいろいろな推測が飛ぶ。甲子園出場が決定した際には、「一番出してはいけないチームを勝たせてしまった」と言った道内の指導者もいたほどだ。だが、ここまでの道のりは順風満帆ではなかった。

 2014年春、3年生1人、1年生8人の9人で始まった野球部はグラウンドがなく、当初はラグビー場、その後も拓殖大北海道短大のグラウンドを借りての練習だった。公式戦初試合となった14年春は空知支部予選初戦で滝川工に0対9のコールド負け。万が一、ケガ人が出ても続行不能にならないように、予備部員としてサッカー部員をベンチ入りさせていたほどだった。その年の夏に空知支部で初勝利を挙げたが、2年目も秋に空知支部で1勝するのがやっと。春秋の全道大会や夏の北北海道大会の出場すらおぼつかなかった。

 選手の勧誘も部長を務める監督の次男・達也が中学を回れるようになったのが、創部前年の12月。その時期は有力選手の進路は決まっているため、現在の3年生に中学時代主力だった選手はいない。県外から入学した選手は、1年生の6月に京都外大西から転入したセカンドの福田健悟らがいるが、その福田も「前の学校は合わずに5月にやめました。部屋でボーっとしたり、1カ月は何もしていませんでした。『自分は何をしているんだろう。もう一回、野球をやりたい』となったときに、父が『ここならやれるんじゃないか』と探してきてくれたのがここでした」と佐々木監督はかかわっていない。ようやく現在の2年生の代から勧誘ができるようになったが、できたばかりで大会で勝ててもいない野球部に有力選手はなかなかやってこなかった。

 転機となったのは、昨年6月に寮と室内練習場ができたこと。佐々木監督の妻・千明さんが寮母として入り、食事作りを担当。本格的な身体作りができるようになった。

「生徒の中には、朝ごはんを食べる習慣がない子もいた。生活習慣ができたのが一番だよね。運動して、基礎体力をつけて、あったかいごはんを食べる。母さんの加入は大きいよ」

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最終更新:8/13(土) 18:20

webスポルティーバ

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