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戦時下日本と欧州情報 --- 若井 朝彦

アゴラ 8/15(月) 16:30配信

わたしの父は先の戦争で従軍している。陸軍であった。学徒出陣で出征し、士官候補試験を受け(受けさせられ)、朝鮮半島で輸送隊の小隊長をして、馬に乗っていたという。引き上げ後はしばらく博多で、復員事務に従事したということだ。最前線に出てはいない。

またわたしには叔父が4人いるのだが、この4人の内、3人が従軍している。いずれも陸軍で、その内、戦後捕虜となり、シベリアに抑留された者が2人。シベリア抑留といっても、その内1人はウクライナまで移動させられていた。ドイツ人の捕虜のこともよく知っていたし、ヨーロッパ・ロシアの見聞があることから、帰還後、東京のGHQ(実際のところ米軍)に招かれて、現地事情を訊ねられたということだ。

父の世代のこの5人の男も、いまはすべて他界してしまって、当時のことをもう訊ねる術もないのだが、それでも聞き取るべきことは聞き取ったような気がする。

しかしわたしは、父からよりもむしろ叔父からさまざまな話を聞いたように思う。父とはほとんど毎日顔を合わせているわけだが、叔父となると一年に数度といった具合である。だから深刻なことでも、すこしは気楽に話題にできたのだろう。

そんな叔父たちの中で、とくに興味を持って話を聞いた叔父がいる。

その叔父は1923年生。招集を受け、陸軍に入隊して千葉の戦車学校で訓練を受けていた。しかしある時、特務機関の選抜試験に出向かされる。

面接試験で、

趣味は何か、好きなものは何か

と問われて、自動車の運転であること告げると、それをここでやってみろ、と言われたらしい。エア・ドライブである。また天皇に反したことばが言えるか、といったことも試されたらしい。誘導面接、逆圧迫面接とでも言えばよいのか。

このあたりで大抵の者はアタマに血が昇って席を立つということだが、叔父はそれなりに遣りすごしたようであって、その結果、終戦間際までこの機関で教育を受けて、1945年の8月には、配属配置を待っていたらしい。

しかしこの叔父は、父やほかの叔父たちとはちがって、真っ先に帰郷していた。実家に帰ってきたのは8月14日であるという。だとすると前日の13日には除隊になっていたはずである。これは本人から聞いたのではないが、その家族によると、実家の庭で、その14日の内にもいろいろと焼却していたという。もっともこれは軍機に触れるものではなくて、おそらく当人の身分に関わるものであったろう。

もしかしたら含みを残した解散であったのではないか、とも思うのだが、この焼却のことからしても、すくなくとも当時の国内にいた関係者は、足跡をきれいに消して、ひとまず次の時代を生きようとしたようである。

その叔父が70才を過ぎたころ、ちょっと話になった。

「やっぱりね、知らされてなかったんだよ」

そう叔父は言ったのだった。それはたしかにそうだろう。しかしそれだけでもあるまい。そう思って、たまたま手に入れていた朝日新聞の縮刷版を見てもらったのである。昭和19年7月の一冊である。もともと紙質が悪い上に、保存も悪く、経年劣化が著しくてボロボロである。

だが内容となると、まさにサイパンが落ち、東条内閣が倒れた月のものである。来るべき空襲に関しても詳細である。叔父は10分ほどもページを繰っていただろうか、静かにこう言ったのだった。

「みんな書いてあったんだねえ」

この静かな口調を、わたしは今でもなかなか忘れられない。

たしかに日本の戦況に関しては、誇大であり、嘘スレスレ、また真実とは言いがたい記事は多い。一通りのことは書いてはあるが、それはなにもかもではもちろんない。だが西ヨーロッパ戦線やドイツ・ロシア戦線となると、その質は今の新聞の外報と大きな違いが見られない。地図も豊富だ。これは想像も含めてのことだが、当時の新聞編集では、自国のニュースが窮屈な分だけ、ヨーロッパの戦況を仔細に紹介したのではあるまいか。またそのヨーロッパの運命に、日本の将来を暗示しようとする意図もあったのではなかろうか。

これは叔父には見せなかったが、今も手許にある

大場 弥平 著 『第二次世界大戦前史』 (弘学社・1944年8月)
赤神 良譲 著 『独ソ戦争史』 (国際反共聯盟・1943年12月)

などを見れば、当時の日本において、ヨーロッパのニュースは決して不足していたわけではなかったのである。知ろうとすれば、かなりのことはできた。朝日新聞にしても、ドイツのV‐1爆弾に関しては、やけに詳しい。

戦争によって分断されていたとはいえ、外信ニュースの出所はあった。ドイツ・ロシア戦線ではベルリンとモスクワの双方。また中立国としてのスイス、スエーデン。とくにイギリス・アメリカの動向となると、ポルトガル・リスボン発の有力な外電が存在した。

ポルトガルは中立国であっただけでなくその位置関係から、ロンドンの新聞が空輸されており、発行のその日の内に届いていたのである。こういった意味からも、当時のリスボンというところはスリリングなところだったようだ。

これはポルトガルのお隣の中立国スペインでのスパイ合戦のはなしだが、このアゴラでも矢澤豊さんが

“ナチスドイツはなぜ「ミンスミート」を丸呑みしたのか(http://agora-web.jp/archives/1645590.html)
(2015年06月18日)”

という、興味深い記事をアップされておられる。これと同様に、リスボンの外交官の仕事も気の抜けないものであったろう。

リスボンからは同盟通信の電信が送られる。公使館からは外務省へ、また陸海の武官が陸軍へと海軍へと、英米情報を送っていたのである。

ここからは疑問である。

1945年の5月、ドイツが連合国に降伏してから、在ポルトガル・リスボン公使館の最大の関心事は、連合国のドイツ処分であったにちがいない。武装解除、戦犯の処分、占領軍政と統治形態。

日本はリスボンにかろうじて耳を持っていた。ポツダム宣言受諾まで、外務省、陸軍、海軍は、これをどう活かしたのだろうか、それとも活きることはなかったのだろうか。終戦史というと、東京での一連の動きか(今夜のテレビでも映画が放送される)、スエーデン工作がよく取り上げられるが、リスボン情報はどうであったのだろう。リスボンを通じて得られた英米の(東部と比較して)寛大な占領政策は、以後6月、7月と、かなり終戦を後押ししたのではないかとわたしは想像している。また英米も、このラインを有効に使っていたのではと思うのだが。

そしてもうひとつ、現代の日本に関する疑問も加えておこう。これも終戦工作に似ているかもしれない。

陸軍には陸軍で、戦争の終結を模索するセクションがあり、それは少数派ではあったけれども懸命に活動していたということが最近は伝えられている。

それと同様に、今の日銀であり財務省にも、レンテンマルクに至るドイツ、ペンゲーからフォリントに至るハンガリーなどの事例を検討したり、独自に現代の何らかの情報を収集するといった、主流とはすぐにはなり得ないセクションがあるのであろうか。戦争末期の大蔵省には、戦後の通貨体制に対する系統的な予備研究はあったはずだが。

そういう人たちがいて、しかし自分たちには出番のないことを願いながら、それでも結構陽気に仕事をしてくれているようだったら、わたしとしては心強いのだが、実際はどうなのであろう。

2016/08/14 若井 朝彦

若井 朝彦

最終更新:8/15(月) 16:30

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