ここから本文です

イタリアのエチオピア侵攻への日本の支持が、幻となった1940年東京オリンピック招致への決定打となった!

BEST TIMES 8/16(火) 6:00配信

リオオリンピックが盛り上がる中、いよいよ次期開催である2020年東京オリンピックの足音が聞こえてくる。戦後日本の復興がコンセプトに掲げられ、大成功におわった1964年オリンピックにくわえ、実は東京にはもう一つのオリンピックの歴史がある。戦争に翻弄され、幻となった1940年東京オリンピック。その開催決定当時の模様について、『地図で読み解く東京五輪』(ベスト新書)を上梓した竹内正浩氏に話を伺った。

 

    昭和十一年七月三十一日、オリンピック開催直前のベルリンのホテル・アドロンで開かれた第三五次IOC総会で、第一二回となる次期オリンピックの開催地が決定している。最後まで東京と招致合戦を繰り広げたヘルシンキ(フィンランド)との間で決選投票が行われ、東京が三六票を獲得したのに対し、ヘルシンキは二七票にとどまり、東京に決まったのである。昭和六年以来足掛け五年にわたる長い道のりであった。ヒトラーを動かしたのが勝因ともいわれるが、確証はない。
   昭和六年十月、東京市会では昭和十五年の第一二回オリンピック大会招致を決議し、嘉納治五郎、岸清一両名のIOC委員を通じて国際オリンピック委員会に正式の招請状を提出していた。大量に人員を運ぶ航空機のない時代である。海を越える選手団の移動はもっぱら船舶を利用していた。欧米が独占していたオリンピック大会を、彼らから見て「極東」に誘致するのは容易なことではなかった。しかも、ヘルシンキ(フィンランド)、ローマ(イタリア)という有力都市に加え、バルセロナ(スペイン)、ブダペスト(ハンガリー)、アレキサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)といった諸都市が続々と名乗りを上げていた。
 昭和七年のロサンゼルスオリンピック大会で日本選手は大活躍し、メダル獲得数一八と参加国中七位(アメリカ、イタリア、フィンランド、スウェーデン、ドイツ、フランスに次ぐ。アジア諸国では英領インドが金メダルを一個獲得したのみ)、金メダル数では七と参加国中五位(アメリカ、イタリア、フランス、スウェーデンに次ぐ)という好成績だった。これによりIOCにおける日本の発言権は増し、IOCの日本人委員は従来の二名から三名となった。もっとも、同じ大会では、開催国のアメリカを除けば、メダル総数トップはイタリアで、二位がフィンランドである。一九四〇年のオリンピック招致に両国が血道を上げていたのも理解できよう。
 オリンピック開催地が決まるとされた昭和十年二月の第三三次IOCオスロ総会を前に、日本の杉村陽太郎駐伊大使(IOC委員兼任。国際連盟脱退まで事務局長兼政治部長)やIOC委員の副島道正伯爵がイタリア首相のムッソリーニとの面会を重ね、イタリアの譲歩を懇請して、ムッソリーニの確約を取り付けていた。これは、オリンピックと同年に予定されていた国際万国博覧会に日本が譲歩(辞退)することと交換条件だったともいわれている。ところが、肝心のオスロ総会では、第一三回(一九四四年)のオリンピックをめざす方針に転換したはずのローマが、この大会にローザンヌ(スイス。IOC本部所在地)が立候補すると報じられた危機感から、突如第一二回オリンピック大会立候補という挙に出たのである。そのためオスロ総会は紛糾し、オリンピック開催都市を決めることができなかった。
 昭和十年十月、ムッソリーニは第一二回大会の東京支持を杉村大使に正式通告する。その背景には、激変する世界情勢があった。同月イタリア軍は、エチオピアへの軍事侵攻を開始していた。有力国だった日本政府によるイタリアの軍事行動支持を必要としていたのだ。いわば、ローマのオリンピック辞退が、エチオピア侵攻へのイタリア支持を暗黙の交換条件にした点は否めないといえるのである。

文/竹内 正浩

最終更新:8/16(火) 6:00

BEST TIMES

記事提供社からのご案内(外部サイト)

BEST TIMES

KKベストセラーズ

笑える泣ける納得する!KKベストセラーズ
の編集者がつくる「BEST TIMES」
(ベストタイムズ)。ちょっとでも皆さんの感
情を揺さぶれたらいいな、と思います。