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“ナイフとフォークを食べているように見えるんですもの” 杳として知れない女に出会う 『杳子・妻隠』 (古井由吉 著)

本の話WEB 8/19(金) 12:00配信

忙しくても1分で名著に出会える『1分書評』をお届けします。
今日は阿野冠さん。

 謎めいた女に出会ってみたい。せめて、小説の中だけでも…。

 おれの読書遍歴はそこに起因している。

 そして、ついに遭遇した。古井由吉の描きあげた『杳子』だ。

 彼女はレストランでまともに食事もできない。恋人のSがステーキを切りわけ、自分の口に運ぶ。杳子はだまってうつむいている。

『どうしたのさ』

『だってナイフとフォークを食べているように見えるんですもの』

 鋭利な杳子の発言に、おれは心臓をグサリとえぐられた。

 これだから乱読はやめられない。さまざまな本のページをめくっていけば、必ずどこかで絶妙の女が出現する。

『杳子』を読み進むと、ぶよついた沼に身体が沈んでいく。活字が全身をむしばむ。湿り気を帯びた女の吐息が皮膚をなぞってくるのが心地好い。

 食事はセックスのメタファーとされている。だとすれば、杳子の言葉が意味するものは男への忌避感。官能的な響きはあるようでない。いや、ないようであるのか。徹頭徹尾、やっかいな女に手玉にとられている感覚がやみつきになる。

 どうあがいても、杳子はおれの頭のなかで再生されない。きっと、彼女は古井由吉の名文のなかでしか生きられないのだろう。

 実際、現実の暮らしのなかで、おれがめぐり逢ったヨウコ(仮)は凡庸に映った。

 地方出の美大生で料理が得意。ひとり暮らしの彼女の部屋をおれは訪れた。

 手料理でもてなされた。隠し包丁の十文字の切り目が入った大根の煮物。味がしっかり染みていてやたらうまかった。

 食後、ヨウコはテレビゲームのスイッチを入れた。おれと一戦交えたいと言う。

 くだらない提案は断るべきだった。ソファに座らず、さっさとベッドにもぐりこめばよかったのに。

「しかたねぇな」

 結果はおれのボロ勝ち。5連敗のヨウコは言葉が少なくなる。

 おれの操るロッベンが、凄まじい突破力でイングランド代表からゴールを奪った。ヨウコは素早く立ちあがる。最小限の歩数でタンスに向かい、引き出しから“隠し包丁”をとりだした。

 「刺す? それとも刺されたい?」

 おれは裸足で逃げだした。

 どの女の心のなかにも、危うい杳子がひっそりと棲みついているらしい。

阿野 冠(あの・かん)

1993年生まれ。東京の下町、谷根千で野球少年として育つ。児童劇団に入り、子役として活動。高校在学時に『花丸リンネの推理』で作家デビュー。

文:阿野 冠

最終更新:8/19(金) 12:00

本の話WEB

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