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山下敦弘と李相日の“奇妙な一致”ーー両監督の15年から探る、日本映画の分岐点(前編)

リアルサウンド 8/19(金) 16:10配信

 山下敦弘監督の新作『オーバー・フェンス』と李相日監督の新作『怒り』は、いずれもふたりのフィルモグラフィーを更新する、それぞれの最高傑作になった。『オーバー・フェンス』は郷里の函館で職業訓練校へ通う男が、喪失感に苛まれ、孤独に傷つきながら、女との出会いに光を見出すヒューマンドラマ。『怒り』は八王子で起きた夫婦惨殺事件を発端に、千葉・東京・沖縄に現れた正体不明の男たちと、彼らの潔白を信じ、同時に不安で揺れる周囲の人たちの闇を炙りだすミステリーだ。

 『オーバー・フェンス』はマイナーポエットとして短い生涯を閉じた作家、佐藤泰志の原作を映画化したもので、『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』に続く“函館三部作”最終作に位置づけられる。『海炭市叙景』以降、主なスタッフの顔ぶれを引き継ぐ“函館三部作”チームに、山下が迎え入れられたかたちだ。ひょっとしたら、絶妙な間でおかしさや切なさを切りとってきたこれまでの山下作品と比べたとき、『オーバー・フェンス』はだいぶ異なったトーンの作品に思えるかもしれない。持ち前の軽やかさ以上に、息苦しさが際立つからだ。でも原作がもともと持つ孤独感や閉塞感を、『そこのみにて光輝く』に続き脚本を担う高田亮が各キャラクターに巧みに落とし込み、山下はその陰影を柔軟な演出力で作品に刻みつけた。

「『オーバー・フェンス』は、思いがけず自分の癖も出た映画ですが、どこか客観視できるんですよ。計算はしなかった。それはシンプルに高田(亮)さんのホン(脚本)が面白かったから。(中略)出来上がったものは、自分の感覚とは別なところに行けています。自分が観ても面白い。ズシズシくる作品。役者たちも全員フルスイングしています。ここで得たものが、これからの自分を変えてくれそうだと感じています」

 みずからこう話すように、『オーバー・フェンス』は山下がかつて住み慣れた世界を離れ、新たな領野へ勇敢に歩みだした作品だ。片や『怒り』は『悪人』に続き、吉田修一の原作を李が映画化した作品だが、彼もここでみずからの目指す場所へとさらに力強い一歩を踏みだしている。『怒り』の求心力となっているのは、惨殺事件の真犯人は誰かという謎解きの物語。でもそこを足場に、李は事件の周縁で人々が織り成す“真”と“偽”、あるいは“信”と“疑”のドラマを、沖縄の米軍基地問題や性的マイノリティーの問題を絡めて濃密に描きだした。愛した人の真実の顔とは? 誰かを信じることとは? 突きつけられるのは、真犯人を巡る謎が明らかになっても、決して解明されることがない人間の謎そのものだ。李は言う。

「自分で多少なりとも達成感があったのは、観終わり感としてわかりやすい答えを提供するのではなく、明確な“クエスチョンとしての映画”を作れたってことですね。僕の映画って対立構造がいつもあるんですけど、オリジナル脚本を書いていた頃は、自分と他者、自分と世界の対立軸にとどまっていたんです。でも『悪人』をきっかけに内省的な対立へと変化していった。今回はその探究をさらに深くできた気がして、それはやはり『怒り』という小説がなければできなかったわけです」

 ともに最新作で最上の成果を収めた山下と李だが、作風は大きく異なるものの、実は彼らには奇妙な一致点がある。ふたりとも大学の卒業制作作品が映画祭でグランプリを受賞し、そのまま劇場デビュー。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭オフシアター部門でグランプリを獲得した、山下による大阪芸術大学の卒業制作作品『どんてん生活』も、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)アワードでグランプリを獲得した、李による日本映画学校(現在の日本映画大学)の卒業制作作品『青 chong』も、同じく2001年に公開された。そして日本映画が激しく揺れ動いた15年を経て、今年、“同期”のふたりはひとつの到達点に辿りつく。『オーバー・フェンス』と『怒り』の公開日が同日、9月17日だというのも奇遇だ。

 考えてみれば、ふたりがデビューした2001年は、それまでの日本映画とそれからの日本映画を大きく分かつ分岐点だったと言える。この年を中心とした数年のうちに、古いなにかが幕を閉じ、新しいなにかが始まりを告げたからだ。その変化を象徴するできごとは、まず前年の2000年に起きた。徳間書店の創始者として、大映の社長として、日本映画の製作を意欲的に手掛けてきた徳間康快の死だ。1988年『敦煌』ではトウ小平と交渉して人民解放軍をエキストラに使い、1997年『阿片戦争』ではヴィクトリア女王役にダイアナ妃をキャスティングしようとした徳間は、政財界にも顔の利く大立て者として知られた。彼は映画製作を含めたソフト産業全般についてこんなふうに語っている。

「博奕打ちですね。それが根本です。(中略)当たるか当たらないか、そんなこと神様じゃなきゃわからないですよ」

 例えば『敦煌』の製作に45億円を投じるなど、彼の手法は大胆にして豪快。惚れ込んだ才能には先行投資を惜しまず、そういった取り組みのなかから『Shall we ダンス?』や“平成ガメラ”シリーズのような、いまも語り継がれる名作が生みだされた。1985年にスタジオジブリの設立を援助し、ジブリ作品を製作面で支え続けたことは、その最たる功績だろう。でも1990年代以降、製作を博打ととらえる考え方は映画界から次第に排除されていった。映画作りがハイリスク・ハイリターンであることはいまも昔も変わらない。だからこそ、そのリスクを分散するために編みだされた手法が、製作を複数の会社で分担する製作委員会方式だ。映画製作をギャンブルからビジネスへ。ごく当たり前のように思える発想だが、「最後の映画博徒」と称された徳間の死は、そのシフトチェンジを加速するような事件だった(ちなみに徳間を「最後の映画博徒」と呼んだシネカノンの李鳳宇については中編で言及する)。

 そして01年、徳間亡きあとの大映、あるいは徳間書店が製作したふたつの作品が公開される。黒沢清監督作『回路』と宮崎駿監督作『千と千尋の神隠し』だ。さかのぼること数年前、1997年を皮切りに日本映画は海外映画祭で数々の賞を受けるようになり、黒澤明や小津安二郎、溝口健二らが世界的に注視された1950年代以来のルネッサンスが叫ばれた。今村昌平監督作『うなぎ』がカンヌ国際映画祭パルム・ドール、河瀬直美監督作『萌の朱雀』がカンヌ映画祭カメラ・ドール、北野武監督作『HANA-BI』がヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞したのはいずれも97年。

「日本映画を観ないのは日本人だけだ」

 雑誌『BRUTUS』にこんな煽情的なコピーが踊ったのも97年のことだ。1998年には『萌の朱雀』のプロデューサーだったWOWOWの仙頭武則が、日本映画の国際的な基盤作りを目指してサンセントシネマワークスを設立し、1999年には諏訪敦彦監督作『M/OTHER』を、2000年には青山真治監督作『EUREKA』を、続けてカンヌ映画祭国際批評家連盟賞に輝かせた。日本映画を再発見するそういった世界的なムーブメントの渦中で、『回路』はカンヌ映画祭国際批評家連盟賞を受賞し、『千と千尋の神隠し』はベルリン国際映画祭金熊賞、そしてアカデミー賞長編アニメ賞獲得という快挙を達成する。ところがそういった評価と興行成績は必ずしも一致するものではなかった。周知の通り、『千と千尋の神隠し』は304億円という国内歴代一位の興行収入を記録している。でも『回路』は、のちにハリウッドでリメイクされるなど高い評価を受けながら、国内において芳しい興行成績を残すことができなかった。いずれも配給を手掛けたのは東宝だが、ジブリ作品がその後も東宝で配給されつづけた一方、世界三大映画祭で主要な賞を受賞するような作家主義の実写作品は、その後東宝の配給作からは誕生していない。

 東宝は2003年にヴァージン・シネマズを買収し、TOHOシネマズを設立して、かねて“興行の東宝”と呼ばれていた通り、シネコン全盛の時代に新たな興行の基盤を確立する。一方、徳間が残した大映は角川書店に吸収され、2002年に角川大映となり、仙頭のサンセントシネマワークスも5人の気鋭監督が製作費1億円で5本の映画を作る「J-WORKS」というプロジェクトを始動しながら、02年に活動を休止した。日本映画の趨勢がゆるやかに“製作”から“興行”へ重心を移し、時代を築いたプロデューサーたちが表舞台から退場していくなか、01年にひとりのキープレイヤーが東宝に入社する。のちに『悪人』『怒り』を製作するプロデューサーの川村元気だ。

 山下と李のふたりはそんな変革期に監督デビューを果たした。

「まあ、いっか。生きてりゃいっか」
「関係ねえよ。俺は俺だ」

 『どんてん生活』の最後に、そして『青 chong』の最後に、それぞれの主人公が口にするセリフは、ふたりの監督の時代に対するスタンスを明確に表しているようで面白い。(中編に続く)

※引用
『オーバー・フェンス』プレス
『怒り』プレス
『メディアの怪人 徳間康快』
『BRUTUS』1997年10月15日号

門間雄介

最終更新:9/12(月) 16:30

リアルサウンド

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