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リストラにあった俺がホームラン王になれたワケ

Wedge 8/23(火) 12:20配信

 「努力は嘘つかないって言葉は、嘘だと思ってた。そんなことしなくても、結果を出せばいい」

 中学時代、相撲の大会に出れば愛知県を制し、陸上では全国大会に駒を進めるほど、山崎武司はスポーツに関して万能だった。その万能さは、努力という概念を奪うほどだった。

 1986年、名門、愛知工業大学名電高校時代に、甲子園未出場ながら通算56本塁打を放ち、強肩強打の捕手として注目を集めた山崎は、中日ドラゴンズから2位指名を受ける。

 「真っすぐだけなら、170キロだって打てる」。プロに入っても、その自信が揺らぐことはなかった。3年目には2軍でホームラン王と打点王を獲得し、自信は膨れ上がる一方だった。

 「あの時の俺は、完全に本能だけでやっていた。だから、人の話は聞かなかったし、そもそも聞く耳すらなかった」

 山崎はこれを、「成長が遅れた原因」と振り返る。プロ入り後8年は、才能と力を持て余しながら、1軍と2軍を行き来した。

 「なんとなく感覚を掴んだ」9年目の95年に16本塁打を放ち頭角を現すと、96年は開幕からレギュラーとして活躍し、6月には月間MVPに輝いた。最終的には39本塁打を放ち、松井秀喜を抑えてホームラン王に輝いた。

 「周りの反応がガラリと変わった。皆、自分をホームラン王として扱う。妙なプレッシャーを感じ、“来年も30本くらい打てたらいいや”って、どこか守りに入っていた」

 それは、初めての感情だった。自信に満ち溢(あふ)れた男がその称号を手にしたとき、それは守らなければならないものに変わった。

 自信が不安に変わった翌年、「真逆の風が吹いた」と本人が語るほど、成績を落とした。以降も、一定の成績は残すものの、飛び抜けた数字を残すことはできなかった。2002年のシーズン終了後、自らトレードを志願しオリックス・ブルーウェーブへ移籍した。

ついに訪れた戦力外通告 一度は決意していた引退

 「球団に言われる前に、自分から辞めるつもりだった」

 04年、オリックス2年目のシーズンは、当時の伊原春樹監督との確執や、人間関係に嫌気がさし、この年限りで野球を辞めることを決めていた。シーズン終了後には球団から戦力外通告を受け、中村勝広ゼネラルマネージャーから、「野球を続ける気があるのなら、他球団に口をきいてやる」と言われたが、すぐにこれを断った。とにかく、山崎に続ける意思はなかった。

 「色んな不祥事を起こした。それも、全部自分がまいた種。トラブルメーカーの自分を欲しがる球団なんてどこにもない。それに、自分の力が衰えてきていることは、自分が一番感じていた」

 そんなとき、野球界では東北楽天ゴールデンイーグルスが新規参入し、監督に就任した田尾安志氏から熱烈なオファーを受けた。一度はこれを断ったものの、周囲の仲間からの説得を受け、山崎の心は少しずつ揺れ始めた。

 「パパ、野球やればいいじゃん」

 野球を続けるか否か。長男の一言は、迷う山崎の背中を押した。

 「子供にね、頑張る姿やもがく姿を見せなきゃって思ってね」

 あと1年だけやりきって名古屋に帰ってこよう。そう心に決め、仙台へと向かった。

 意地もプライドもかなぐり捨て、田尾監督の指導に耳を傾けた。教えられたことを愚直にやり抜き、終わってみればチーム最多の25本塁打を記録し、見事復活を果たした。 

 2年目を迎えた楽天にやってきたのは、野村克也監督だった。

 「野村監督なんて、絶対相性が合わん。俺は、野村監督が最も嫌いとしているタイプの選手だろ? 正直、終わったと思ったよ」

 チームとしての規律を重んじ、野球以外での私生活も厳しく指摘する野村監督のスタイルと、言いたいことを言う山崎のスタイルがぶつかり合うことはわかりきっていた。早速、野村監督から様々な指摘を受ける。

 「人は第一印象で決まることが多い。自分から印象を悪くすることもないだろう」

 最初のうちは、そのどれもが野球のプレーには関係のないことだった。

 「一度クビになって、ちゃんと人の話を聞こうって気になっていた。だから、聞くことができた」

 野村監督の指導は次第に野球へとシフトしていく。

 「本能だけでここまでやってきたんだから、確かにオマエは天才かもしれない。ただ、年をとると力も技術も落ちるんだ。だから、頭を使え」

 同じワンストライクでも、見逃したのか、空振りをしたのか、タイミングは合っていたのか、読みは当たったのか、そこには無数のストーリーがある。キャッチャーはそれを見て次の配球を考える。ただの1球ではなく、その経緯を知ること。その打席で出る結果に根拠を持つこと。とにかく、山崎にとっては全てが新しい考えだった。

 「野村監督の教えは、実はすごくシンプル。例えば、三振したのならその根拠を考えて、頭を整理しろ。それでダメなら、練習しろ。練習してもダメなら、野球を辞めろ。単純なことだけど、これですごく楽になった」

 楽天3年目の07年。43本塁打、108打点で、11年ぶりのホームラン王、ベストナインを獲得し、初の打点王のタイトルも獲得した。戦力外通告を受けた後、ホームラン王を獲得するのは、異例中の異例である。21年目、39歳で見事再ブレイクを果たした。

 「野村監督ともっと早く出会っていればもっと打てたって言う人もいるけど、それは違う。若いときには、何を言われても耳を貸さなかったと思う」

 ただこれだけは若手に話している、と言って付け加えた。「人の話を聞く重要さには、早く気づいた方がいい。そのほうが、早く稼げるから」。

 楽天で7年目の11年。史上2人目の40歳台での100本塁打を達成し、また、史上17人目の通算400本塁打を達成。しかし、若返りを図るチーム方針で、来季の構想から外れていることを星野仙一監督から告げられた。同時に、球団からコーチとしての要請も受けた。

 「わかりました。辞めます。ただ、現役は辞めません」

 辞め方は自分で決める。自由契約を志願し、自身二度目の戦力外通告を受け、同年12月、古巣中日へ移籍した。

 中日で2年目の13年7月、シーズン二度目の2軍降格を告げられた際、山崎は引退を決めた。27年に及ぶ現役生活に、自らピリオドを打った。

 ユニフォームがスーツに変わっただけで、迫力はそのままに、現在は野球解説者として活動している。大勢の人の中にいても明らかに目立つオーラは、隠すことができない。

 「いずれは、現場に戻りたいね。もちろん、12人しかなることのできないポジションで。そりゃあ、中日か、楽天か、ま、オリックスでね」

 いたずらっぽくそう言って、豪快に笑った。(敬称略)

* * *

山崎武司(Takeshi Yamasaki)
1968年生まれ。中学校卒業時には5つの相撲部屋からスカウトを受けるなど野球以外でも活躍。愛工大名電高校では1年秋からレギュラーを獲得し、高校通算56本塁打を放つ。86年ドラフト2位で中日ドラゴンズへ入団。96年に39本塁打を放ち、本塁打王を獲得。しかし、それ以降伸び悩み、2003年にトレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。04年に戦力外通告を受け、引退を決意するも、新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した田尾安志氏から熱烈なアプローチを受けて現役続行を決意して移籍。見事に復活を遂げて、07年には本塁打王と打点王の二冠を獲得。中心打者として活躍した。11年に戦力外通告を受け、中日へ移籍。13年に引退した。
(写真・NAONORI KOHIRA)

高森勇旗 (元プロ野球選手)

最終更新:8/23(火) 12:20

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