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「一番おとなしい指揮官」 北海・平川監督が手にした準優勝の重み

webスポルティーバ 8/23(火) 13:42配信

 夏の甲子園で準優勝を果たした北海の平川敦監督は、二言目には「今年の選手はおとなしいので……」と語った。だが、そう話す監督自身が、一番おとなしい人物だったかもしれない。

【写真】北海を7-1で下し、54年ぶりの優勝を飾った 作新学院

 快進撃にも威勢のいい言葉は一切聞かれず、じっくり考え、淡々と言葉を紡ぐ。

「なぜ勝てたのかは、正直、わからない。これから考えます」

「我慢」「辛抱」が口癖だった。

 88年ぶりに夏の甲子園ベスト4に進出したときも、さんざん考えたあげく、こう言った。

「我慢した結果でしょうね。我慢しかないと思ってきたので……」

 平川監督は北海OBで、北海学園大時代に母校のコーチを務めた。大学卒業後、3年間、道内の百貨店に勤め、98年春に26歳の若さで名門・北海の監督を継いだ。そして翌99年夏に幸先よく甲子園に導いた。

「あのときは自分の力ではない。前監督の大西(昌美)先生が指導した選手たちが残っていたから行けたんです。自分自身、プレーヤーとしては高校までしかやっていませんし、ド素人のようなものでしたから。大西先生の財産がなくなると、どうしていいかわからなかった。選手との人間関係も、技術的な指導法も、毎日が、壁、壁、壁でしたね」

 00年代に入ると、道内では駒大苫小牧が台頭。04年から06年まで3年連続で夏の甲子園決勝の舞台に立ち、「優勝、優勝、準優勝」という偉業を打ち立てた。その間、北海は駒大苫小牧にまったく勝てなくなり、9年間、甲子園から遠ざかった。

 道内の関係者は言う。

「北海のOBの圧力は道内一。だから、平川くんも大変だったと思うよ」

 駒大苫小牧の香田誉士史(こうだ・よしふみ)監督と同い年ということもあり、何かにつけて比較され、夏に甲子園を逃すと、どこからともなく「(平川監督は)辞めるらしい」との噂が耳に入った。

「辞めたいと思ったことはありますよ。大西先生に何回か相談したことはありますけど、『辞めたら負けだぞ』と。もう、やるしかなかった」

 駒大苫小牧に先を越されて悔しくないはずがない。しかし、そうした私的感情は押し込め、目の前のできることを1つずつこなした。

「すごいなと思ったし、自分たちもそこを目指していたので、複雑といえば複雑ですよね。でも、そのへんは、あんまり考えないようにした。同じ土俵に立っているわけですから。駒大苫小牧に勝たないと、甲子園はないわけですから。粛々と、自分たちのやることを必死になってやるしかなかった」

 ただ、こう感謝の言葉を口にする。

「香田先生は、やればできるっていうことを北海道民に教えてくれた。私も口では日本一って言ってましたけど、どういうチーム作りをすればいいかまでは考えていなかった。漠然と言ってただけ、というのが正直なところでしたから」

 香田監督が駒大苫小牧を離職した08年夏、鍵谷陽平(日本ハム)を擁し、北海は久しぶりに甲子園に出場するも、東邦に乱打戦の末、10-15で敗れた。11年夏は明徳義塾に2-3で惜敗し、またしても平川監督にとって悲願の甲子園1勝はならなかった。昨年は開幕戦で鹿児島実業に4-18で惨敗。今度は、甲子園の初戦の壁が立ちはだかった。

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最終更新:8/23(火) 13:42

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