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教育格差や再チャレンジの難しさといった現代の社会問題も浮かび上がらせる時代小説

Book Bang 8/26(金) 6:00配信

 野口卓は、隠居した園瀬藩士の岩倉源太夫を主人公にした『軍鶏侍』でデビュー、同書で第一回歴史時代作家クラブ賞の新人賞を受賞した。その後もユーモア時代小説〈ご隠居さん〉、正統派の捕物帳〈北町奉行所朽木組〉などの人気シリーズを書き継いでいる。

 いま最も注目を集める時代小説作家の著者がスタートさせた新シリーズが、『手蹟指南所「薫風堂」』である。これまで人生経験を積んだヒーローを描くことの多かった著者だが、本書では手習所(寺子屋)の若き師匠を主人公にすることで、新境地を開いている。そのため青春小説色も強く、タイトルにある「薫風」のような爽やかさがある。

 物語は、老人が、刀を持った浪人に金を要求される場面から始まる。そこに若侍が現れ浪人を一刀両断。それでいて返り血をほとんど浴びない驚異的な動きで老人を救う。

 若侍の名は雁野直春。父親は西国の某大名に仕えていたが、諌言した重職に恨まれて改易となり、抗議の切腹をしたという。その時妊娠中だった妻は、後に直春を産むが、産後の肥立ちが悪く亡くなった。直春は父の友人の使用人だった清蔵、キヨ夫妻に育てられ、十九歳の時には、直心影流の流れを汲む沼田道場で代稽古をつけ、儒学の私塾では塾頭になり、師匠から後継者になって欲しいと頼まれるほど文武に秀でた若者になっていた。そして二十歳になって老人を助けたことで、直春の人生は大きく変わることになる。

 一方、直春が助けた老人は、息子に薪炭商の店を譲り隠居した忠兵衛。孫店が二十四軒付いた隠居所を買った忠兵衛は、盆栽をいじる楽隠居をするつもりが、店子の子供に読み書きを教えたのを切っ掛けに、手習所を開くことになった。それから二十年、寄る年波に勝てず後継者を探していた忠兵衛の前に現れたのが、直春だったのである。

 商人として社会を見てきた忠兵衛は、「情けは人のためならず」を実践するやさしい子供を育てることを目標にしている。旗本の子弟が通う私塾で教える直春は、我儘で自分勝手な教え子が歪んでいるように思え、人格形成に影響を与える十二歳頃までの教育の重要性を痛感していた。

 忠兵衛の教育方針に魅かれた直春は、手習所の後継者になることを決め、「薫風堂」の看板を掲げる。忠兵衛と直春は、自分の利益ばかりを追求し、弱者へのいたわりを忘れている人間が増えていると嘆くが、これは同じような状況にある現代社会への批判と考えて間違いあるまい。

 二人が目指すのは人間教育。知識を詰め込むのではなく、子供が学んだ知識と経験を活かす「知恵」を付けさせることも大事にしている。これは現代でも通用する教育理念であり、人材を育成する教育が、社会を改革する鍵になるのは今も昔も変わらないので、子供たちを教える直春の奮闘が、リアルに感じられるのではないだろうか。

 順調に師匠としての生活を始めたかに思えた直春だが、実の父だという大身の旗本・春田仁左衛門の登場で、暗雲が立ち込めてくる。仁左衛門は直春を養子に迎え、旗本の石川監物の娘・美雪と結婚させようとするのだ。傲岸不遜で庶民を見下す仁左衛門は、直春が子供たちになって欲しくないと考える大人の典型。著者は仁左衛門を宿敵とすることで、直春の理想をより際立たせて見せたのである。

 直春は、強引に結婚話を進めようとする仁左衛門に翻弄されながらも、「薫風堂」のまとめ役だった定吉が、父親が倒れたため手習所を去らなければならなくなった問題や、乳兄弟の文吉が職場の人間関係で仕事を辞めた問題を解決しようとする。これらは、教育格差や再チャレンジの難しさといった現代の社会問題も浮かび上がらせるので、困難に直面する登場人物への共感も大きいように思える。

 仁左衛門の思惑とは無関係に親しくなった直春と美雪の恋の行方、そして直春の薫陶を受けて成長する「薫風堂」の生徒たちの今後など、積み残された伏線も多いので、シリーズの今後が楽しみである。

 ◇角川文庫◇

[レビュアー] 末國善己(文芸評論家)
※「本の旅人」2016年8月号 掲載

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最終更新:8/26(金) 6:00

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