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さらば友よ…渡英する夏目漱石が正岡子規を最後に訪ねた日

サライ.jp 8/26(金) 13:22配信

これが今生の別れか…渡英する夏目漱石、正岡子規を庵に訪ねる。【日めくり漱石/8月26日】

今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)8月26日、33歳の漱石は門弟の寺田寅彦と落ち合って、ともに東京・根岸の子規庵へと向かった。

熊本の第五高等学校の教授職にあった漱石は、文部省の給費留学生として2年間英国に派遣されることが決まっていた。その準備のため、漱石はひと月ほど前に家財道具一切を処分して妻子ともども熊本を引き払い、鏡子の実家である東京・矢来の中根家に引き移っていた。

帰京後まもない頃にも、漱石は当然のように、病床に伏す親友の子規を見舞っていた。一方の寅彦は前年に五高を卒業し、この頃は東京帝国大学で物理学を学んでいた。熊本で漱石から「課外授業」として俳句を学んでいた寅彦は、漱石の紹介で上京直後に子規を訪ね交流を始めていた。

この日、連れ立っての子規庵訪問は、漱石の別れの挨拶に他ならなかった。欧州への出発は来月早々と決まっていた。子規の病は篤く、《病床六尺、これが我世界》と綴るような暮らしが続いている。子規庵の玄関から子規の下駄が姿を消して久しい。子規の肺をおかして血を吐かせしめた結核菌は、脊髄をもむしばみはじめている。子規は外出は無論のこと、立ち上がることも困難になっているのだった。

漱石がロンドンへ旅立てば二度と生きて会うことはできないかもしれない。漱石と子規の胸の底には、そこまでの覚悟ができていた。子規はすでに、漱石の留学を知った直後にこんな一首を詠んで漱石に書き送っていた。

《年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん》

君が洋行から帰る頃には、自分は墓の下におり、その周りには草がはえているだろうという意味。自分自身の悲愴な状況と覚悟を、突き放した写生調でうたっているのである。

熊本にいる漱石に宛てて、子規はこんな手紙も書いている。

《我輩のような道楽者でも一日でも生きのびるようにとの介抱、それを思えばいつも涙の種なれど、さりとて思うことも出来ず楽(たのしみ)もなくして生きて居るが手柄でもあるまじく候。一日も早く行くべきところへ行くが自分のため、また人のためと存じ候。死別の悲みは飼犬に死なれてもあることなれども、それもいつか一度はあることなれば、一年早かろうが五年遅かろうが同じこと也。いっその事早く死んでアア惜しい事をしたといわれたが花かとも存じ候。(略)けだし病床に在ては親など近くして心弱きことも申されねば、却って千里外の貴兄に向って思う事もらし候》(明治30年6月16日付)

これに呼応するように、漱石は子規に宛てて、大量の自作の俳句を書き送る。まるで「弱いことを言うな、君には俳句があるだろう」と語りかけるように。

時には《宇佐に行くや佳き日を選む初暦》《泊り合す旅商人の寒がるよ》《吹きまくる雪の下なり日田の町》といった旅の句をいくつも並べ、こんな一文を添えた。

《つまらぬ句ばかりに候。しかし紀行の代わりとして御覧くだされたく候。こいねがわくは大兄病中、煙霞の癖(へき)、万分の一を慰するに足らんか》(明治32年1月)

元気な頃は旅行好きで、あちこち旅して歩いていた子規。そんな子規の「烟霞の癖」(深く山水を愛し旅を好む習癖)を少しでも慰めるために、自分が紀行の中で詠んだ俳句を送るというのである。

この日、最期の対話を交わしていく二人の落ち着きはらった態度からも、寅彦には大仰な切迫感は伝わらなかった。寅彦は帰宅後、日記に綴っている。

《漱石師来り共に子規庵を訪う。谷中の森に蜩(ひぐらし)鳴いて踏切の番人寝惚(ねぼ)け顔なり》

寅彦日記のこのどこか長閑な調子が子規の覚悟の一首と響き合うとき、人間の生きる哀しみ、切なさが一層胸に迫ってくる。

■今日の漱石「心の言葉」
再会、何(いず)れの日をか期せん(『漢詩』より

矢島裕紀彦

最終更新:8/26(金) 13:22

サライ.jp