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「戦場と性」の問題を考えるジャーナリストが中東・アジアの売春婦や色街を取材

Book Bang 8/27(土) 6:00配信

「アメリカがイラクにもたらしたのは、民主主義でなくポルノだ」

 イラク人は、サッダーム・フセインの時代には、世界と簡単につながるインターネットを自由に使えなかった。それなのに、今時分の男たちはインターネットカフェでポルノ映画や画像を一心不乱に眺めることができる。戦場と性の問題を考える八木澤高明氏は、イラク、ネパール、タイ、中国、韓国の売春婦や色街を取材しながら、大らかさと暗さが同居する人類最古の職業に従事する女性たちの陰翳をまぢかに描いた。

 フセインの贈り物という言葉がある。彼の統治下では、サウジアラビアはもとより他のアラブ諸国と比べても、売春にはまだ目こぼしがあった。そのせいでイラク戦争に従事した米兵たちはバグダードで娼婦を簡単に見つけることができたらしい。フセインの贈り物という所以である。それにイラクには、アッシリア人と呼ばれる東方教会のキリスト教徒やジプシーもいたので、ムスリマ(女性イスラーム教徒)の禁欲性と対照的に、ナイトクラブで色を鬻ぐ女性もいたのである。

 著者は、イラクでブルカを捨てホットパンツを穿いた女性たちを、敗戦直後の昭和二二年にモンペを脱ぎ捨て洋服を着た日本のパンパンの像と重ねる。彼女たちは、今のイラクにも姿と形を変えながら存在するのだろう。ガジャルと呼ばれたジプシーやアッシリア人たちはフセインの時代には意外と迫害を受けず、ジプシーには良い大統領だったよ、と賞讃する娼婦さえいた。米軍は「独裁体制からの解放者」でなく、「生活を壊した賊」だったというジプシー娼婦の言い分にも、掬すべき点がある。

 フセインの贈り物にもまして、中国河南省のエイズ村の話に驚く人は多いだろう。一九九〇年代に省政府が音頭をとって盛んに売血を奨励し、注射針の使いまわしや売血を輸血用に使うことでHIV感染者を三〇万人以上も出した土地柄である。中国全体では現在五〇万人のエイズ患者がいるというが、この数字は控え目にすぎるだろう。河南省から上海に出稼ぎに来た男たちが買った街娼は、床屋や野鶏と呼ばれる。二畳ほどの床屋を装って「ちょんの間」を営業するから床屋。野鶏は読んで字の如しであろう。吝嗇のあまりコンドームをつけないから、客の労働者を通してエイズ感染が猛威を振るうというのだ。辺鄙な土地にエイズ村を現出させたのは、経済活動とヒトの移動のせいである。これを大航海時代の梅毒の蔓延と比べる手法は見事である。フランスのアナール派歴史学のいう「細菌による世界史の統一」は、現在の日本人にも他所事ではないのだ。

 いずれにしても、エイズ患者はもとより纏足の老婆をわざわざ探しに出かけるジャーナリスト魂はたいしたものだ。著者は、公安当局に証拠写真を押収され、身柄を拘束されてもあまり恐怖感をおぼえないようだ。財布の金を抜き取って返却した時の公安の言い草がふるっている。「エイズ患者の為に使います」と。

 韓国での娼婦となると、歴史的に李朝が管理した「妓生」、自由に村々を回った遊女の「女社堂牌」、料理屋で春を売った私娼の「色酒家」に由来する。それが韓国併合で日本の公娼制度に組み込まれ変質してしまう。かつては「正三品平壌月桂」といった位階さえもつ妓生もおり、芸事も吉原の太夫と同じく達者だった伝統は絶えた。いまソウルの鍾路三街の私娼窟にいる「かるぼ」(南京虫の意)なる最下級の娼婦たちは、さしずめ「色酒家」の流れなのだろうか。むかし米軍兵士の相手をした清凉里の最下等娼婦は、吉原の零落した老女郎の「羅生河岸」に等しいと指摘するが、正しくは「羅生門河岸」と呼ぶべきだろう。東豆川という場所では、米軍兵士の姿は見当たらず、いまやネパール人などアジア人出稼ぎ労働者が主な客らしい。

 著者は、いわゆる「従軍慰安婦」問題の胡乱な側面もきちんと指摘する。韓国での取材と考証が重ねられ、まことに説得力に富む内容になっている。「戦場娼婦の社会史」とでも銘打っておかしくない作品である。

[レビュアー] 山内昌之(明治大学特任教授)
※「本の旅人」2016年8月号 掲載

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最終更新:8/27(土) 6:00

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