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えーっ? あのクロマティが、最近の日本プロ野球に「ダメ出し」連発

webスポルティーバ 8/27(土) 17:50配信

「ニッポンの野球は、あの頃のほうが今よりもレベルは高かったよ」

 そう語るのは、かつて巨人で活躍したウォーレン・クロマティだ。そのクロマティの言う“あの頃“とは、彼が巨人でプレーした84年から90年の頃を指し、日本のプロ野球の全盛期だと言い切った。

【写真】辛口のクロマティ氏も、この選手は高く評価

 日本のプロ野球は、野茂英雄がメジャーで旋風を巻き起こした95年以降、毎年のようにメジャーリーガーを輩出している。06年に始まったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも「国内組」中心の編成ながら2度の優勝を誇るなど、世界でも屈指のレベルにある。それでもクロマティは“あの頃“が最高だったと言う。

 たしかに当時は、毎日のようにテレビでプロ野球中継が放送されていたし、巷の話題も野球が中心だった。

 そんな当時のプロ野球を牽引していたのが巨人だった。本拠地・後楽園球場の周りは連日、自由席の座席確保のために徹夜で行列ができ、日本初の屋根付き球場である東京ドーム完成後は、入場券は即日完売が当たり前だった。そんなプロ野球が、巨人が最も輝いていた時代に、クロマティはその中心にいた。

 それまで“メジャーリーガー“の来日といえば、ポジションを失ったベテランがキャリアの最後に荒稼ぎしにやって来るのが相場だった。

「それを私が変えたんだ」

 その言葉通り、クロマティは前年までモントリオール・エクスポズのレギュラー外野手として不動の地位を築いていた。現役バリバリのメジャーリーガーの彼が日本のチームを選んだ理由とは何だったのだろうか。彼の答えは明確だった。

「ツーミリオンダラーね(笑)」

 200万ドルという金額は、彼が来日した84年当時のレートで換算すると、じつに約4億6000万円。この金額は、当時FAだったクロマティの獲得を争ったメジャー球団とほぼ同額だった。

 落合博満が日本人選手初の1億円プレーヤーとなったこの頃、今では考えられないことだが、メジャーリーグの球団と日本の球団の事業規模は同等だった。助っ人外国人選手の値段は高騰し、現役メジャーリーガーでさえ日本でのプレーに引き寄せられていた時代だった。

「あのときの日本の野球は本当に高いレベルだった。もちろん、メジャーリーグよりは下だったけどね。でも、それもほんの少しの差だったよ」

 そう言って、クロマティは数人の選手の名前を挙げた。

「まずは広島の衣笠(祥雄)さん。あの人は他の選手と違っていたよ。最初に彼のスイングを見たとき、メジャーでプレーするポテンシャルがあることはわかったよ。あと、同じチームの(山本)浩二さんもいいバッターだった」.

 当時、巨人の前にしばしば立ちはだかった広島の主力打者は、クロマティの中に強烈なインパクトを残しているようだ。

 クロマティの在籍時、巨人は87年、89年、90年と3度リーグ優勝を果たしたが、日本一の栄冠を勝ち取ったのは、3連敗から奇跡の逆転を遂げた89年のみ。あとの2回は西武の前に敗れ去った。当然、この西武のメンバーたちも思い出深いとクロマティは言う。

「秋山(幸二)はいい選手だった。彼は打つだけじゃなく、守備も足も素晴らしかった。あの頃の西武は本当にいい選手が揃っていたし、強かった。キヨ(清原和博)のニュースも知っているよ。悲しいことだけどね。いずれにしても、彼らはみんなメジャーでもプレーできたはずだよ」

 巨人のバッターについて聞くと、唯一名前が挙がったのが吉村禎章だった。吉村は、クロマティ来日の84年に高卒3年目ながら層の厚い巨人でレギュラーを勝ち取った天才打者。しかし88年シーズン、試合中に大ケガを負い、その後の現役人生の大半をベンチで過ごした。

「彼は本当にいいバッターだった。バッティングセンスが素晴らしかったね」

 ただ、クロマティの印象では、メジャーレベルとなると、打者よりも投手のほうが多かったという。たしかにあの時代、球場は狭く、打者の力量を測るのは難しい。逆に、その“箱庭“と呼ばれた球場で、スラッガーたちを抑え込んだ投手たちは、クロマティの目にも“本物“に映った。

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最終更新:8/27(土) 17:50

webスポルティーバ

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