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【実写映画レビュー】大衆が求めるのは“奇人”ではなく“常識人” 16年版『ゴーストバスターズ』を見て感じたヒーロー像の変化

おたぽる 8/27(土) 14:00配信

 84年公開のハリウッド映画『ゴーストバスターズ』は、アラフォーオヤジにとって思い出の1本だ。冴えないオヤジ4人が、ニューヨークに現れた幽霊(ゴースト)を秘密兵器で退治するコメディタッチのストーリー。当時最新のVFXで描かれた幽霊は怖いというより愛らしく、主題歌の掛け声「ゴーストバスターズッ!」も最高にイカして(死語)いた。

 なにより、社会的にアウトローで冴えない面々の男たちが徐々に街のヒーローになっていくさまは、当時小学生だったアラフォーオヤジにとって、涙がちょちょぎれる(死語)ほどクールだった。よって2016年現在、飲みの席でうっかりアラフォーオヤジに『ゴーストバスターズ』の話なんぞ振ろうものなら、思い入れタップリの長話に付き合わされること必至。できれば避けたい面倒案件である。

 それほどの思い出ムービーならば、アラフォーオヤジとしては2016年版『ゴーストバスターズ』も観ないわけにいかない。本作は続編ではなく「リブート(再起動)」ゆえ、オヤジ4人のメンバーは、3、40代の女性チームに一新されたが、物語の舞台(NY)、登場メカなどはほぼ同じ。「主人公の俳優がコメディアン出身」「4人目に加わるメンバーが黒人」という点も、きっちり84年版の韻を踏んでいる。実に律儀だ。

 ストーリーはこんな感じである。素粒子物理学博士のエリン・ギルバートは、幽霊の実在について書いた著書の存在が勤務先の大学にバレて、クビになってしまう。それをきっかけに、かつての友人にして共著者であるアビー・イェーツ、ゴースト捕獲メカを開発するジリアン・ホルツマンとともに、幽霊退治を請け負う「ゴーストバスターズ」を起業。ここに地下鉄の駅職員であるパティ・トランも加わってゴースト退治を開始する。しかしその裏では、ある人物による恐ろしい計画が進行していた――。

 映画そのものは、コメディ映画として実にソツなくまとまっている。4人の女性によるテンポの良い会話は、英語が聞き取れずとも耳に快適。笑いを誘う絶妙な間や適度にお下劣な下ネタも、すこぶる愉快だ。メンバー全員が女性だからといって安易に恋愛ネタを絡めないプロットにも、好感が持てる。7、80年代映画ネタの応酬や、84年版キャスト陣のカメオ出演なども、アラフォーオヤジのウンチク欲をいい感じで刺激する。正しきリブートの形、安心の「想定の範囲内」だ。ただ一点を除いては。

 その一点とは、主人公がカリスマ的ヒーローではなくなったことだ。

 84年版で、元コメディアンのビル・マーレイが演じた主人公ピーター・ヴェンクマン博士は冴えない女たらしだが、どんな超常現象が起こっても取り乱さない人間として描かれていた。好きな女が化け物に取り憑かれようが、破壊の神が復活しようが、うろたえない。表情をほとんど変えない。常に人を食ったような態度を崩さず、窮地に陥っても皮肉や憎まれ口を忘れない。温かい人間味が多少薄い代わりに、常人が到底持ち得ない英雄的資質、カリスマ性があったのだ。

 しかし16年版でクリステン・ウィグが演じた主人公エリン・ギルバート博士は、良くも悪くも人間味にあふれている。彼女は大学への正規雇用に執着する真面目な労働者であり、高い家賃におののく一般市民であり、ゴーストの出現に慌てふためく常識人であり、頭カラッポのマッチョ男をセクシーと感じてしまう、テンプレ感満載のアラフォー女性なのだ。

 このキャラクター設定は、時代の要請としかいいようがない。

「カリスマ的偉人」「手の届かない存在」「理解しがたい変人」が喝采をもってヒーローたり得た80年代と異なり、2010年代に人気を集めるヒーローは「共感の対象」だ。前世紀に創造されたバットマンにしろ、スーパーマンにしろ、その他のアメコミヒーローにしろ、ここ10年ほどの間に作られたリブート作では、とにかく悩む。戦う理由やアイデンティティについて、悩みまくる。悩むことで、観客に共感してもらうためだ。どんな状況でも意志と信条がブレないキャラクターは「頼もしい」ではなく「人間味がない」と言われてしまう。観客は心を寄せてくれない。

 現代の人々は80年代ほど、無邪気にヒーローを求めていない。能力値の高いヒーローはそれだけで嫉妬の対象となり、自分の劣等感を肥大させる不快な存在となるからだ。ここ30年で、世界は「生まれつき能力の秀でた者が活躍すること」にどんどん不寛容になってきている。今の観客が求めているのは心身ともに完全無欠のヒーローではなく、自分と同じように弱い部分を持つ存在なのだ。

 だからこそ現代においては、どんなスーパーセレブであっても、一般人と同じ感覚を持っている者が大衆の支持を集める。“セレブなのに庶民的”は常に褒め言葉であり、ニュースでは好意的に報じられる。セレブなのにファストフード好き、セレブなのに安い服を着ている、セレブなのにSNSでファンに絡んでくれる。「好感度」とは、大衆レベルに感性と目線を下げてくれる親切さのことだ。

 日本で求められる“アイドル”像の変遷も、それを端的に表している。80年代、アイドルとは「ブラウン管の向こうに住まう、やんごとなき存在」「手の届かない絶世の美少女」だった。しかし今では違う。アイドルとは、「会いに行って握手できる存在」「とてつもなく苦労してやっとステージに上がれた、ちょいブスな存在」に他ならない。大衆はタレントに憧れない。共感し、応援し、時に憐れみさえするのだ。

 それゆえ、現代における大衆映画の主人公は、常人に理解しがたいパーソナリティの持ち主ではなく、多数の観客が共感できる普通の感性の持ち主でなければならない。だからこそ、エリンは「一般市民的たるアラフォー女性」に設定された。

 繰り返そう。大衆が求めるのは「理解できない奇人」ではなく「共感できる常識人」だ。それは、エリンの日本語版吹き替えを担当しているお笑い芸人・友近の芸風にも近い。彼女が巧みに形態模写する「返しの手慣れたホステス」「おせっかいな旅館の女将」「エステの受付嬢」などは、大衆が日常的に目にしたことのある、いかにもいそうな人々だ。決して、常人に理解しがたいパーソナリティの持ち主ではない。

 ちなみに、友近はエリンを演じたクリステン・ウィグと同じ1973年生まれだが、かつてヴェンクマン博士を演じたビル・マーレイと同じ1950年生まれにして、日本のアラフォー男性がカリスマ視するお笑い芸人がいる。志村けんだ。両者とも土曜日のTV番組(マーレイは『サタデー・ナイト・ライブ』、志村は『8時だョ!全員集合』)で70年代後半にブレイクしたという共通項がある。そして、いずれも30代当時からいい感じで若ハゲだった。

 お笑い芸人としての志村が扮する代表的なキャラクターといえば“バカ殿”や“変なおじさん”だが、彼らは共感などしようもない奇行だらけの反社会的存在。「常人に理解しがたいパーソナリティの持ち主」だ。常に人を食ったような態度を取り、ゴーストを前にしてもまったく動じることのないピーター・ヴェンクマン博士のカリスマ性に、どこか通じる部分がある。なお、“バカ殿”がレギュラー放送化されたのは86年。“変なおじさん”は87年に初登場した。ヴェンクマン博士と同じ、80年代の産物である。

 別に、カリスマ不在の現代は80年代に比べてつまらないとか寂しいとかいった、クソみたいな感傷に浸って本稿を〆るつもりは、毛頭ない。ひとつだけ言いたいのは、アラフォーオヤジに志村けんの話を振ると、『ゴーストバスターズ』どころではなく話が長くなるということだ。御年41歳の筆者は、そう思う。
(文/稲田豊史)

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最終更新:8/27(土) 14:00

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