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宮台真司の『シン・ゴジラ』評:同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性

リアルサウンド 8/29(月) 0:50配信

■「行政官僚制の日常」と「破壊の享楽」

 『シン・ゴジラ』(7月29日公開/庵野秀明監督)は想像外に興味深い映画でした。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年)以降の庵野秀明監督の不発ぶりに加え、特撮監督が『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(2015年)で味噌をつけた樋口真嗣氏なのもあって、期待水準を高く設定していなかったこともあるかもしれませんが、間違いなくエキサイティングでした。

 本作は従来のシリーズと違って、ゴジラに主題的な重心がなく、かと言ってヒーローに焦点が当たる訳でもない。敢えて言えば「日本の行政官僚制」が主人公で、そのパフォーマンスに焦点が当たります。その話は後で本題にするとして、僕がこの作品を見る前に、どこに注目しようと思っていたのかについて話しましょう。キーワードは「破壊の享楽」になります。

 この夏休み、僕の3人の子供たちは、AppleTVで利用できる定額制動画配信番組Huluを使ってウルトラシリーズと怪獣映画を見続けています。3歳になったばかりの末っ子男児は、ウルトラマン!と叫びながら、横蹴りや前転をしつづけています。そう、昔ながらの光景ですね。でも、この光景が何を意味するのかについて、僕らはちゃんとは考えて来なかったようです。

 先日公開終了したダン・トラクテンバーグ監督『10 クローバーフィールド・レーン』(2016年を見たのを機会に、モチーフが響き合うマット・リーヴス監督『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008)を見直しました。『ゴジラ』シリーズの影響をもろに受けたと監督や主要スタッフが告白するこの映画は、影響の核が「破壊の享楽」の継承にあることを示しています。

 映画には、2001年の米国同時多発テロに於けるツインタワー崩落映像の丸パクリとも言える表現が登場し、まさにそこで観客が狂喜したのでした。ポリティカル・インコレクトネスを承知で言えば、この映画は、ツインタワー崩落映像が、人々に「破壊の享楽」を体験させたはずだと、主張します。実際、ツインタワー崩落の中継映像を見ながら万歳三唱した論壇人を知っています。

■「破壊の享楽」を説明する精神分析理論

 「破壊の享楽」は、連載で紹介して来たジャック・ラカンが注目する無意識の働きです。ヒトは4万年前にうたと区別された言語(音声言語)を獲得し、1万年前から農耕牧畜の開始と同時に定住を始め、三千年前から書記言語の獲得によって大規模定住化します。こうした過程を通じて、ヒトは独特な心の働きを示し始めるのです。一口で言えば、無意識を獲得したわけです。

 動物には本能があります。本能はエネルギーと生得的プログラムの組合せです。ヒトには欲動があります。欲動は生得的プログラムを欠いたエネルギーです。欲動だけでは社会もパーソン(人格)も構成できないから、成長の過程で習得的プログラムが「後から」インストールされます。習得的プログラムは言語的に構成されます。だから、社会もパーソンも言語的に構成されます。

 社会もパーソンも、言語プログラムの自己運動からなる自動機械です。ところで、悲しいうたを聴けば悲しくなり、楽しいうたを聴けば楽しくなるのと違い、「悲しい」「楽しい」という言葉を聴き或いは文字を見ても、悲しくなったり楽しくなったりしません。即ち、うたにはミメーシス(感染的摸倣)の機能があるけど、言語にはそうした動機づけの機能が備わっていません。

 一方、言語は否定性と表裏一体で、主題化は主題の否定からなる地平を伴います。「美しい」は「醜い」を、「Aである」は「Aでない」を地平にします。従って、言語的な指令プログラムである法「~するな」に服することは、「~せよ」という指令の抑圧を伴います。だから、法が支える社会を生きる営みは、「法を犯せ」「禁忌を破れ」といった指令からなる無意識=超自我を、自動生成します。

 だから、法に従うことで「秩序の安心」を生きる営みは、必然的に、法を嘲笑する「破壊の享楽」の可能性を蓄積します。つまり、「秩序の安心」は自動機械的に「破壊の享楽」を引き寄せます。ラカンの考えでは、言語プログラムである法に従って社会を生きる者は、必然的に「破壊の享楽」に身を震わせる可能性を手にします。これがフロイトを継承したラカンの考え方です。

■日常を描き込むほど「破壊の享楽」が増す

 彼の考えでは「破壊の享楽」は誰もが持つ無意識の自動機械的な傾きです。それを1954年の段階で映像化していたのが本多猪四郎監督『ゴジラ』であり、怪獣映画やウルトラシリーズは『ゴジラ』が切り開いた「破壊の享楽」の提供を切れ目なく継承してきたのですが、僕たちがそれを必ずしも自覚していなかったところを、『クローバー~』が改めて事実を教えてくれたわけです。

 僕の考えでは、キリスト教文化圈では「秩序の安心」が神に属するものなので、「破壊の享楽」を主題化する営みが憚れますが、かかる軛のない日本では「破壊の享楽」を主題化し易い。思えば、大友克洋の『童夢』(1981)に始まる一連のデブリ表現も「破壊の享楽」です。『クローバー~』は、そうしたゴジラ以降の「破壊の享楽」の伝統を咀嚼した上で、高度に再現したものです。

 『クローバー~』の達成は、充実した日常描写が鍵です。前半に30分を超える長いパーティー場面があります。カメラマンを入れずに俳優から俳優へとハンディカムを手渡し、俳優らはアドリブで演技をしています。僕らが学校で絶対に習うことがない口語英語が飛び交う中、僕らは愉しみに浸りつつも、「怪獣が出てくる映画じゃなかったのか?」と疑問に思い始めます。

 すると、いきなり地響きが起こり、停電になります。非常階段に出てみると、遠くで閃光が走り、あたかも「9.11」のような光景が展開されているのです。天空から隕石めいたものが降り注ぎます。逃げるために階下に降りて路上に出ると、ビルの合間に怪獣めいたものの姿が見えて、「自由の女神」の首が吹っ飛んできてゴロリンチョ。ここで観客たちが歓声を上げます。

 すごい映画です。僕らはあれを見て、怪獣映画というのはそもそもポリティカリー・インコレクトな(政治的道義的に正しくない)表現であったことーー大規模な破壊がラカン的な意味で享楽jouissanceである事実ーーを改めて思い知りました。「ツインタワーの崩落映像が実は享楽だった」という誰もが喉元まで出かかってた言葉を、「YES」と言い切ってしまっているのです。

■パイロット版としての『巨神兵東京に現わる』

 制作陣にそれを言い切らせたのが、他でもない『ゴジラ』だったというわけなのです。いずれにせよ、「悪夢こそが享楽である」というポリティカリー・インコレクトなビジョンーー怪獣映画の隠れた(しかし本当は誰もが知っている)モチーフーー米国映画として初めてあれほど臆することなく挑発的に描いたのは、『クローバーフィールド/HAKAISHA』が初めてでしょうね。

 かつて『クローバー~』を見た際、今後のゴジラ・シリーズはこの映画が目標の一つになるだろうと予想しました。実際、その4年後に公開された庵野秀明脚本・樋口真嗣監督の10分間の短編『巨神兵東京に現わる』(2012)を見て、予想通りだったなあと思いました。驚いたことに、冒頭から2分30秒まで、林原めぐみのモノローグを背景にした東京の日常描写なのですね。

 日常の描写が徹底するほど、後続する「破壊の享楽」が増幅されて眩暈に満ち溢れるーーこの事実はフロイト=ラカンの「法と超自我(裏の法)の理論」で説明しきれます。思えばテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』からして既に、「破壊の享楽」を準備するための徹底的な日常描写が庵野秀明の十八番でした。それを思えば『クローバー~』の逆輸入という訳ではないのでしょう。

 『シン・ゴジラ』を見ると、そのパイロット版が『巨神兵~』だった事実が分かります。そこには、秩序に満ちた日常の描写によって増幅された「破壊の享楽」があります。但し違いがあるとすれば、長い日常場面に引き続く破壊場面という時系列には必ずしもなっておらず、破壊場面にも拘わらずいつまでも動き出さない行政官僚制の日常という対位法が用いられています。

 この抽象的な形式に着目すると、いつまでも動き出さない行政官僚制の日常描写は、観客をじれったさでヤキモキさせるサスペンスフル化の機能だけでなく、巨神兵と全く同じく口から発射される一本のビームと体から四方に発射される複数のビームを用いたゴジラによる首都破壊を、より享楽化する機能ーーカタルシスを増幅する効果ーーを果たしている事実が分かります。

■岡本喜八『日本のいちばん長い日』の再現

 巷を見ると、右も左も『シン・ゴジラ』大絶賛です。曰く、昨今の日本(人)の駄目さを描きつつ、日本(人)が本来持つ連帯の底力を歌い上げる、日本の観客を大いに勇気づける作品だ…云々。僕に言わせれば、これほど読解力を欠いた理解はありません。日本の観客が被っている劣化ぶりが、こんなにも進んでいるとは思いませんでした。順を追って説明して行くことにしましょう。

 庵野監督の作品は、御自身が告白している通り、黒澤明監督と岡本喜八監督の大きな影響を受けています。黒澤明からは「活劇場面のダイナミックなモンタージュ技法」を学んでいますが、岡本喜八からは「非常事態を背景とした行政官僚制の為体というモチーフ」を学んでいます。本作を見れば、誰もが岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』を意識している事実に気付きます。

 本作には、政府関係者たちの「事なかれ主義的なお役所対応」が自虐的なばかりに描かれます。政治家でさえ行政官僚的メンタリティから抜けられず、平時に回るシステムに依存し続けます。M・ウェーバーに依れば、行政官僚は既存プラットフォームでの予算・人事の最適化を期する一方、政治家は危機に際し既存プラットフォームの取替を期するので、両者は強い緊張関係にあります。

 政治家は世論を背景とした予算・人事への影響力を梃子にして行政官僚の抵抗を突破したがりますが、行政官僚は政治家の疑獄事件の追及を通じて自分たちに不利益な制度変更を企てる政治家から世論の支持を引き剥がして政治の表舞台から除去したがります。でも今日の日本にはもはや政治家と行政官僚の緊張関係はなく、政治家が専ら行政官僚におんぶに抱っ子の状態です。

 『シン・ゴジラ』も、『日本~』と同じく、既存プラットフォーム上での権益の鍔迫り合いに勤しむ行政官僚ら(に依存する政治家ら)の出鱈目を描きます。「いつまでも動き出さない行政官僚制の日常」の悲喜劇を描くのです。現実の日本に酷似します。序盤での政府の描写はリアルです。ところが、それが中盤から「こうあってほしい」という理想の日本の描写へと切り替わります。

 しかし鑑賞後の余韻は、爽快からは程遠い。むしろ深い絶望を感じました。死を目前に控えた老人が、あり得たかもしれない華々しい人生を夢見ていたところが、不意にそこから目覚めて現実に帰ったときに味わうであろう絶望です。その絶望は、右も左も本作を「勇気づけられた」などと大絶賛している状況を踏まえると、より深まります。もう少し詳しくみましょう。

■「日本人の欠点がそのまま長所」というファンタズム

 前半では、僕たちがよく知っている現実が描かれています。即ち、政権政党が何であるかに拘わらず、平時を前提にしたプラットフォーム上での予算と人事(天下りポストを含む)の最適化を追求する一方、非常時には愚鈍で能なしの怪物である他はない、自己保存を自己目的化している行政官僚制という「動物」が、コミカルに描かれます。そこが岡本喜八的な表現になります。

 しかし、ゴジラの一撃で深刻な被害が出てからは、非常事態における日本の行政官僚制において、「もしかしたらありえるかもしれない」優秀さが発揮されます。ゴジラが段階を踏んで変化していくように、行政官僚制も変化していく。縦割り行政のなかで、なぜか瞬時で微妙な阿吽の呼吸のような調整が始まり、前半とは似ても似つかないパフォーマンスが示されるのです。

 通常こうした映画では、停滞した組織の中から一人の英雄的な人物が出現し、彼の倫理的な毅然とした佇まいに賦活されてーーミメーシス(感染的摸倣)を生じてーー組織が活性化し、困難が次々打破されていく、という英雄譚の図式が採用されがちです。しかし、本作はさにあらず、傑出した個人は1人も登場しません。あくまでも組織力によって困難が打破されて行くのです。

 前半では、縦割り行政が機能せずに関係者らが責任をなすりあうという、行政官僚制に乗っ取られた日本的な政治の欠点が、コミカルに描かれます。しかし、やがてゴジラの出現が未曾有の国難であることが共通前提になると、日本的な縦割り行政が、縦割り行政のまま正しく機能し始めるのです。これは何かを思い出させる。そう、弱点が長所だった時代もあった事実です。

 本作では、日本(人)の欠点として考えられている性格が、そのまま強みとして働いてゴジラという未曾有の国難を超克する力を生むのです。一口で言えば、強烈な「悲劇の共有」「難局の共有」がある場合に限り、日本のあの縦割り行政が「縦割り行政のまま、正しく機能し始める」ということです。だから愚昧な観客が、「僕らはこのままでいい」というメッセージを受け取るのです。

 戦争に於ては悪名高き大本営発表やセクショナリズムなど出鱈目な帰結をもたらした、総動員体制的な行政官僚制の暴走ですが、敗戦後から田中角栄の時代までは、「戦後復興&経済成長こそ国民の共通目標だ」という認識のシェアと「米国に逆らうことはできない」という認識のシェアを共通前提とすることで、同じ総動員体制的な行政官僚制が、高い遂行を示したのですね。

 1991年のバブル崩壊までの日本企業も、「会社の成長と発展こそが全社員の共通目標だ」という認識のシェアと「金儲けするには国際ルールに従う(逆利用する)しかない」という認識のシェアが、あまたの成長企業を生み出しました。トヨタ自動車しかり、松下電器しかり、八幡製鉄しかり。但しバブル崩壊後は、倒産を恐れる会社は遂行を維持する一方、政治は墜落します。

 「欠点を改めずとも、それがそのまま武器になる」というファンタズムは、ゴジラとの戦闘方法に於ても表現されています。例えば、無人新幹線や無人在来線に爆薬を積んだ攻撃です。これがゴジラ凍結作戦の成功に大いに貢献することになります。新たな都市交通システムを阻害するガラパゴス的に進化した日本の鉄道技術によって、逆に国難が打破されるという演出です。

■「自立できないなりの創意工夫」のファンタズム

 日米関係も然り。ゴジラの国連による捕獲が軍事的な機密の拡散に繋がることから東京への核攻撃を強硬しようとする米国政府に、日本政府は「NO」とは言えません。「宗主国の意向には逆らえない属国化した日本」という、今や誰もが熟知する現実が本作にも引き継がれています。だからこそ「英雄が登場して米国に逆らう」という可能性は最初から遮断されています。

 しかし、米国に「NO」とは言えないかわりに、関係各国への根回しで米軍の核攻撃を引き延ばし、かわりに自国発案のゴジラ凍結作戦に米国の承認と援護を取り付けるに到ります。「主権国家として恥ずかしくない振舞い」から程遠いものの、「“所詮は傀儡国”にふさわしい国防」の仕方ではあります。米国の承認から見放されれば、日本の行政官僚制は迷走と暴走に陥りかねません。

 飽くまで「米国の承認」の枠内に留まる他ないとはいえ、政治家不在の日本で政治家の等価物として機能する米国の強いリーダーシップの下で行政官僚制の力が結集されるのではなく、各省庁(の担当官)が各々の役目の中で互いに同調圧力をかけ合って困難を乗り越えるというのは、敗戦後、象徴天皇制の下での議院内閣制を採る日本が本来目指していた姿であったはずです。

 もちろん正確に言えば、米国によって「象徴天皇制の下での議院内閣制を採る日本が本来目指すべき方向性」として示されたものです。押しつけ云々とホザく間抜けが後を絶ちませんが、第一に、戦争に負ければ枠組を押しつけられるのは当たり前であり、第二に、戦勝国が承認する戦後体制を独力で創案する力を欠く以上「米国によって示される」以外の選択肢はありません。

 ここで賢明な観客はハタと膝を打つはずです。『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズに於ける碇ゲンドウ(父)と碇シンジ(息子)の関係は、米国と日本の関係の隠喩であったのか…と。いや、少なくとも現在の庵野秀明が、そのように自己(再)規定しているのは確かです。そう。本作は、「米国という父から永久に自立できないオタク少年たる日本」という設定を出発点にしています。

 但し、米国映画に頻見する「危急存亡の事態に陥った息子が、やっと父からの自立を果たす」物語ではなく、「父から自立できないオタクのヘタレ息子が、ヘタレなりの矜持と知恵で未曾有の危機を乗り越える」物語です。米国人が見たら抱腹絶倒の御都合主義ですが、それでもこの物語は現実ならぬファンタズムに過ぎません。それを示すのが石原さとみ扮する大統領特使です。

■ファンタズムぶりを暴き出すアスカ・ラングレー

 日本人祖母を持つ大統領特使のキャラクターは、映画内で浮いていて、世評も散々です。人物造形(社交的なハシャギっぷり)はテレビ版『エヴァンゲリオン』に於ける惣流・アスカ・ラングレーを彷彿とさせ、アニメ的だから実写では浮きます。碇シンジに該当するのは誰か。日本国ないし日本的行政官僚制そのものです。ここに庵野おなじみのオイディプス構造が成立します。

 米国が父(碇ゲンドウ)。日本が息子(碇シンジ)。特使が父から遣わされた母。『エヴァンゲリオン』では、シンジ以外のエヴァ搭乗者(綾波レイとアスカ・ラングレー)は父から派遣された母です。その母の入れ知恵で息子は父の謀略から脱します。米国高官が「危機が日本でさえ成長させるのだな」と哄笑する場面もあります。本作はゴジラをシトとしたエヴァ続編なのです。

 ラスト。凍結作戦が成功し、主人公の官房副長官と大統領特使が、互いに国のリーダーとなろうと誓い合います。父を疎外した、母と子の結託。凍結はしたものの、処理しきれないゴジラが、ファルス(母のもう一つの欲望対象)の廃棄物化を暗示し、映画は幕を閉じます。そこでも、図式は『エヴァンゲリオン』のものがそのまま踏襲されます。そのことが重大な隠喩です。

 碇ゲンドウの妻=碇シンジの母がシトを欲望したように、従って父から派遣された母である綾波レイやアスカもまたシトを欲望します。同様に、大統領特使もゴジラを欲望します。『エヴエンゲリオン』では、ゲンドウが表の法とすれば、シトは裏の法つまり「破壊の享楽」です。同じく、特使にとって、米国が表の法だとすれば、ゴジラは裏の法つまり「破壊の享楽」です。

 愚昧な観客の胸は熱く滾ることでしょう。「日本は終わりじゃない。このままでもまだイケる」「オタクな僕らでも、いざとなったらこんな風に戦える」と。本作が大絶賛されるのは当然です。日本人が一番見たい夢があります。但しこの夢は大統領大使の存在つまり母という虚構を通じてしかありえません。それゆえこの作品は庵野による隠喩的な皮肉だと受け止められるべきです。

 これは庵野版『五分後の世界』(1994年に公刊された村上龍作品)です。つまり「あのときお母さんさえいてくれれば、一緒にお父さんを出し抜けたのに」という物語。実際にはお母さんはいてくれないので、「オタクな僕らでも、いざとなったらこんな風に戦える」ことはないのです。全ては『エヴァンゲリオン』最終2話が示すように、碇シンジのファンタズムにしか過ぎません。

 繰返すと、本作には「破壊の享楽」モチーフと「シンジの妄想」モチーフの2つの柱があります。「シンジの妄想」モチーフに着目すれば、初代ゴジラと違って本作に天皇が登場しない理由も明らかです。皇居の前で回れ右をする初代ゴジラは、不在になった父=人間宣言をした天皇を巡る、南海の英霊たちの物語でした。今や父は厳然として存在する。ケツを舐めるしかない米国です。

■「破壊の享楽」において頂点を極めてはいない

 僕の考えでは、「シンジの妄想」モチーフの政治的含意ごときは、自動機械のように解釈できなければなりません。その意味で、本作を見て胸が熱く滾る観客は単なる頓馬に過ぎないけど、まともな自動機械であれば達成可能な解釈に、さしたる享楽はありません。所詮は自動機械の性能を巡る競争(狂騒?)に過ぎません。「シンジの妄想」モチーフは庵野のクセみたいなものです。

 僕が関心を持つのは、『シン・ゴジラ』の「破壊の享楽」が、『クローバー~』を超えたか、『巨神兵東京に現わる』を超えたか、だけです。そのことだけが、本作が怪獣映画の頂点を極めるものであるか否かを決します。皆さんはどう思われたでしょうか。僕は『シン・ゴジラ』の後、それぞれの作品を2回ずつ見ましたが、答えは必ずしも肯定的ではありません。

 確かに、巨神兵が空を覆い尽くしていたように、ゴジラの巨大な尻尾が空を覆い尽くしていた。かなりよかったけれど、『巨神兵~』を上回ることはありませんでした。なぜなら、第一に、「ああ、焼き直しね」という既視感があったからであり、第二に、『巨神兵~』にあったような日常描写の長いタメがなく、それを行政官僚制の日常描写では埋め合わせ切れなかったからです。

 確かにCGで製作された破壊シーンのデブリや粉塵は「9.11」を思わせるところもあったけれど、『クローバー~』を上回りませんでした。自由の女神の首の話をしましたが、『巨神兵~』にも東京タワーの破壊シーンが出てきて「破壊の享楽」が一つの山場を迎えます。ベタな話ですが、ラカン図式に従えば有名なランドマークの破壊は我々の超自我を刺激するのです。

 また、『クローバー~』では、有名なゴジラと張り合うのが難しいという判断で、怪獣の全体像がほとんど描かれず、「視覚的な得体の知れなさ」を手放そうとしませんでした。得体の知れないものほど秩序の反対物になり、得体が知れたものほど秩序に登録された害獣に近いものになります。その意味で『シン・ゴジラ』は不利な戦いをせざるを得ませんでした。

 庵野監督は戦いの不利さを充分に自覚していたことが伺えます。その証拠に、ゴジラの得体の知れなさを、法的規定の想定外という話にスライドしています。防衛出動(自衛隊法76条)では武力行使できるが、要件は外部からの武力攻撃だから一生物に過ぎないゴジラには該当しない。ゴジラの出現は自然災害に該当するが、災害派遣(83条)では武力行使できない……云々。

 規定不可能性という点では、『クローバー~』は言うに及ばず、庵野が脚本を書いた『巨神兵~』における巨神兵のほうが圧倒的です。巨神兵は規定不可能な存在であるがゆえに、<社会>の外に拡がる<世界>の謎に直接関わる「崇高なもの」として現れます。ゴジラは、相対的に規定可能な存在である分、崇高さを演出しようとすると勝負の不利を感じて白けるのです。

■怪獣映画の時代、規定不可能性をどう確保するか

 『巨神兵~』のモンスターも『クローバー~』のモンスターも、<世界>の謎に触れる得体の知れなさに満ちた崇高な存在で、ヒトの側が戦いに勝ったのか負けたのか分からず、そもそもヒトの側が勝たねばならないのかさえ分からない、という設定です。僕の考えでは、この規定不可能性こそが、「破壊の享楽」を数倍・数十倍に触媒する力を、発揮するのですね。

 負け戦を戦うべく庵野監督は、法的な規定不可能性を持ち出しただけでなく、4段階のメタモルフォーゼのアイディアを持ち込みます。実際最初に登場したゴジラの姿は不気味で、ゴジラ映画を期待する向きに違和感を与えるのに十分でしたが、変態を重ねて数倍に大きくなると皆が知るゴジラに近づき、崇高な存在として屹立しようとする姿が逆に痛々しく感じられます。

 従って、見終わった後に僕が感じたのは、ゴジラを、『巨神兵~』や『クローバー~』に搭乗する怪物のような、<社会>への登録を全く欠いた、<世界>の存在理由に直接関わるような規定不能性として、描き出せなかったのか、という疑問です。怪獣映画や円谷シリーズを無数に見てきた観客の方々には、恐らく僕と同じように感じる向きが少なくないと思います。

 この機会に言いますと、「破壊の享楽」というモチーフを意識的・再帰的に展開する映画が、今世紀に入って陸続と出てきた背景に、<社会>における「なりすまし」を可能にした上で隠蔽するファンタズムの、機能不全があるように思います。機能不全は一時的なものでなく、映画の意味論的ベースが不可逆に変化したことを指し示すように思われますが、いかがでしょうか。

 主権国家と資本主義と民主政のトリアーデが成り立つ時代にしか、見ず知らずの人々を国民という仲間だと見做す感受性を持続できません。トリアーデは既にトリレンマに変じ、見ず知らずの仲間を守るために戦争で死を賭して鬪うという動機づけは自明でなくなりました。人々は<社会>から<世界>へと連れ出された結果、戦争映画が不可能になり、怪獣映画が残るでしょう。

宮台真司

最終更新:8/30(火) 18:04

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