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岡野雅行「ジョホールバルで、すごい笑顔だった」

R25 8月31日(水)7時0分配信

9月1日(木)からいよいよスタートするサッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」(テレビ朝日系列で地上波生中継)。数々のドラマが生まれたW杯最終予選を、当事者たちと振り返る。そんな最終予選で初めて日本をW杯へ導くゴールを決めたのが「野人」岡野雅行さんだ。(前編記事はこちらから)。

やっぱりサッカーっていいな…気づいた「原点」

岡野さんは現在、J3のサッカークラブ・ガイナーレ鳥取のゼネラルマネジャー職にある。クラブを運営するための資金調達や、イベントなどでも先頭に立って活躍している。そこでかつて言われ続けた“Vゴールの人”であることが大いに力になってくれている。

「正直、地方のJ3のチームですからよく知られていません。営業でいろいろな企業にご連絡してアポイントメントをとって伺うんですが、いまいちピンと来ていただけてないことも多いんです。そんな時でも、担当の方とご挨拶すると“岡野さんですよね!”って言ってくれるんです。それで上の人に通していただけたり。ある意味ズルいんですけど、あのシーンを見ていた方は多くて、それで話が進むというか。そういう意味でも、今考えたらすごく良かった。あとは、講演もよくさせていただくんですが、まず当時の心境をしゃべっておいて、“ではその外したシーンを見てみましょう”ってVTR流すとバカウケです(笑)。それにこうしてワールドカップの予選が始まると取材に来ていただけますし、今はもう、決めて良かったなって思えます」

「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる、あの試合の時、岡野さんは25歳だった。日大を中退して浦和レッズに入った時には「10年ぐらいできればいいか」と思っていたという。大学時代も試合を忘れて明け方まで飲むほどの酒好き。引退後は居酒屋でも開こうと考えていた。それが現役は41歳まで、そして今もなおガイナーレ鳥取のゼネラルマネジャーとしてサッカーに関わり続けている。

「ワールドカップに出た後の目標は、実は“世界”っていうのがあったんですけど、20年前ってなかなか難しかったんですよね。代理人もいないしチームが“出さない”って言えばそれまで。そこで軽く目標を失って、29歳の時、雰囲気を変えようと思ってヴィッセル神戸に行ったんです」

浦和レッズは名実ともにJリーグ最大規模のクラブである。年間予算に選手層に熱狂的なサポーター…。ピッチから初めてスタンドを見た岡野さんはその圧に身震いしたという。一方、当時のヴィッセル神戸は創設5年目。メインスポンサーも撤退するどころかユニフォームの胸スポンサーも定着せず、クラブの台所事情はとても苦しかった時代。

「行ってみて“いいな”と思っちゃったんです。サポーターの方と直接会ってご飯を食べて話をして、スタジアムにかける横断幕を一緒に作って。選手がスポンサー探しとかやってて。その頃、カズさんとか城とかすごいメンバーがいたんですけど、みんなそういうふうにやっていて、こりゃ原点だなと。なんかやっぱりサッカーっていいよな、って改めてサッカーのことが好きになって」

実は、今や高校サッカーの強豪である島根県の立正大淞南サッカー部のベースを作ったのが岡野さん。 “リアル男塾”と称されるほどの、ある意味すごい学校がサッカーでどんどん強くなっていくということを経験してきたのだが、それはまた別の話。ヴィッセル神戸でそうした「原点」に触れ、2年で浦和に戻ると今度は、自分がチームの最年長になっていて…。

「メンバーがすごかったんですけど、選手間でコミュニケーションがうまくとれていない感じでしたね。だから、とにかくみんながやりやすい環境にしたいと思ったんです。それまでギラギラしてて目立ちたかったんですけど、どっしり構えてお尻を叩くぐらいのポジションで行こうと。それで、ゴハン行くぞってみんなに声かけたら、全員来てくれたんですね。あとで聞いたら、普段絶対そんなことないっていうんですよ。そういう場を設けて、雰囲気良くして先頭に立って笑わせて、試合に出なくても盛り上げて。僕一人がプレーしてどうこうということではなく、チーム全体が見えてすごく楽しかったんです」

翌年、浦和はJリーグ発足後初めての優勝を果たし、天皇杯は2連覇。2007年にはアジアチャンピオンズリーグを初制覇、クラブワールドカップで3位という成績を収める。

「やっててよかったなって実感しました。やめると簡単に楽になる。続けるのは難しいけど、続けてないと楽しみもない。ジョホールバルのゴールもそうなんですよね、あれは4回目のチャンスだったんですよ。ヒデが持った時には必ず信じて走っていた。諦めずにやり続ければ結果に繋がるなと思いました。決めた時も、ヒデが自分で打ったルーズボールですけど、ヒデが打つからいいや、と思って走らなかったら、入れることもできなかったですし」

だから、浦和との契約が切れた後も、現役続行の道を探した。2009年に香港1部リーグの天水圍飛馬に移籍。そして同じ年、JFLのクラブだったガイナーレ鳥取に。プレーヤーとしてはもちろん、チームにプロのスピリッツを注入する導師としての役割を担って参加した。

「アホみたいに怒ってましたよ(笑)。あと一歩のところまで行くのに上のカテゴリーに上がれない。あと1戦勝てばいいのに踏ん張れない。練習を見ていて感じたのは、ミスっても周りが許すんです。いいよいいよって言ってるから“よくないよ”って言うようにしました。サッカーってミスの多いスポーツだから、ミスはしょうがないんだけど、同じミスを繰り返していいはずはないんです。そこを追求していかないとどんどん甘くなるんですよね。でも鳥取も楽しかったですね。練習環境は良くなくて、毎日練習場が違ったり、犬の散歩とかしてる河川敷で、川に落ちたボールを網でみんなですくったりもしましたが、そんな中、J2に上がることができました。その後、J3に降格してしまいましたけど…」

2013年の現役引退とともにゼネラルマネジャーのオファーを受けた。その時まず行ったのが「スマホで“GM”って検索すること(笑)」。

「私の調べによると、革張りのソファに座って葉巻吸って指示出してればいい人…だったはずなんですけどねえ。クラブでいちばんこき使われてます(笑)。今、鳥取市に住んでるんですけど、チームは米子にあってスポンサーさんも米子にいっぱい。この移動が1時間40分かかるんです。で、鳥取にもスポンサーさんがいらっしゃるから挨拶に行ったら今度は神戸に行って、米子に戻って広島から東京に飛び、広島に戻って…。接待、営業、講演、何でも屋さんですね(笑)。あとはチームのイベントで肉も焼くし魚も配達する(笑)。なんかもうまた違う人生だな」

ジョホールバルから戻ったその足で、鳥取に向かう。

「20年でいろいろありましたね。ジョホールバルで、すごい笑顔だったって言われました。また行ってみたいですね、20年後。岡田さんが監督やられた時、41歳だったんですよ。僕が今、44歳ですから、すごかったですよね。よく41で引き受けたなって思います。岡田さんと食事して言ったら、“バカ、やりたくなかったに決まってんだろ”って(笑)。修羅場でしたからね。あの時、岡田さん、誰を交代したとかあんまり覚えてないって。なぜあの延長の時に僕を出したのか、理由ははっきりしてないんですって(笑)。でも僕は、あの時信じて使ってくれた岡田さんに本当に感謝しています。」


■インタビュー前編はこちらから
■R25「サッカー日本代表」特別インタビュー特集はこちらから

武田篤典(steam)=取材・文/稲田 平=撮影

■サッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」(テレビ朝日)
10月6日(木)日本vs.イラク
10月11日(火)オーストラリアvs.日本

川平慈英&中山雅史がW杯アジア地区最終予選の思い出の名シーンとリンクするスペシャル映像も要チェック。
(R25編集部)

※コラムの内容は、フリーマガジンR25およびR25から一部抜粋したものです
※一部のコラムを除き、R25では図・表・写真付きのコラムを掲載しております

最終更新:9月15日(木)18時1分

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