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ジーコJのブラジル式4-4-2。“進歩しない”代表。フラットラインの破棄と1人余る守備【西部の4-4-2戦術アナライズ】

フットボールチャンネル 8/31(水) 10:20配信

 アトレティコの躍進を受けて、復活の感がある4-4-2システム。Jリーグで頻繁に採用される一方で、意外にも日本代表ではそれほど使われてこなかった。だがジーコ監督が率いた日本代表は、3-5-2との併用でありながらも、ボックス型の4-4-2をベースとしていた。ドイツW杯から10年を経た今、当時の戦い方を振り返る。(文・西部謙司)

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トルシエと正反対の方針を採ったジーコ

 2002年ワールドカップ後、フィリップ・トルシエ監督の後任としてジーコ監督が就任した。いわずと知れた世界のスーパースターである。

 ファルカン、オシム、ハリルホジッチも選手としての名声はあったが、ジーコとは比べられない。ただ、監督としての手腕は未知数だった。鹿島アントラーズで短期間指揮を執った経験はあったが、監督としてのキャリアはないも同然。とはいえ、日本代表に経験豊富で世界的に実績のある監督が就任したことはそれ以前にもない。

 オフトはフロントやコーチの経験は豊富だったが監督だったことはなく、ファルカンはブラジル代表を率いたが短期間にすぎない。加茂、岡田には国際的な経験がなく、トルシエの実績はアフリカ限定だった。監督経験の有無は、協会にとってさほど大きな問題ではなかったのかもしれない。

 ジーコ監督は前任のトルシエ監督とは正反対の方針を採った。チーム作りに関して、トルシエがトップダウン方式とするとジーコはボトムアップである。世界標準を目指して選手を鍛えるのではなく、選手の能力を信頼して個々の力を最大限発揮させようとした。今、そこにいる選手の力を引き出すことがジーコ監督の基本方針だった。

ブラジル方式の4-4-2。人材が豊富だったMF

 ハンス・オフトから続いていた世界標準へのキャッチアップという流れは、ここで大きく変化したことになる。「世界」へ追いつけと頑張ったところで、日本は「世界」の中心にはいない。設定した目標に到達したときには、すでに「世界」は一歩前にいる。

 ジーコ監督が意識したのは「世界」より、むしろ「日本」だった。まずは自分たちの力を出す。そのために選手に自由を与え、戦術的な約束事は最小限にとどめた。大枠だけ決めて、細部は選手同士の話し合いに委ねている。

 その結果、オフト以来続いていた、そしてファンも慣れていた、段階を踏んで成長する日本代表はみられなくなった。はじめての「進歩しない」代表チームである。

 当初のフォーメーションは4-4-2。ジーコ監督はフォーメーションにこだわりはなく、その後は3-5-2に変化している。形が先にあるのではなく、選手にフォーメーションを合わせていた。ただ、ベースになっていたのはボックス型の4-4-2であり、ブラジル方式である。

 トルシエ前監督が徹底させていたフラットラインは破棄され、「1人余れ」という守り方に変わった。フラットラインは数的優位でも1本のパスでまとめて置き去りにされてしまうリスクがあるが、1人がカバーリングポジションをとっていればそのリスクは軽減できる。

 はっきりとリベロを置いたわけではなくSBやMFが余ってもいい。とにかく相手より1人の数的優位。ブラジルは伝統的にゾーンディフェンスを使っているが、「人」への意識が強い。セレソンも3バックと4バックで揺れた時期があり、それはジーコ監督の日本も同じなのだが、「人」への意識が強い守り方ゆえの悩みといえる。

 中盤の構成は2人のボランチと2人の攻撃的MF。攻撃的MFにはウイングよりもプレーメーカーのタイプが多く、この2人は攻撃時に中央へ入るので、サイド攻撃はSBのオーバーラップが多用される。攻撃的MFは1人ではなく2人というところが、人材豊富なブラジルらしさかもしれない。当時の日本もこのポジションは人材が豊富だった。中田英寿、中村俊輔、小笠原満男、小野伸二がいた。

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最終更新:8/31(水) 10:20

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