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「東アジア共同体」を夢想する - 丸川知雄 中国経済事情

ニューズウィーク日本版 9/1(木) 17:00配信

<ベルリン滞在中、イギリスがEU離脱を決めるという大事件に遭遇した。EUは終わった、という声も聞かれる。だが、EU諸国の人々は共同体のメリットを享受しており、崩壊はしそうにない。今も国境の壁が高い東アジア出身の筆者にとっては、EUはほとんど奇跡に思えた。東アジアでEUのようにナショナリズムを超えた共同体を実現するにはどうしたらいいのか>

 私は8月中旬に4カ月のベルリン滞在を終えて東京に戻りました。この4カ月間にヨーロッパで起きた最大の事件と言えば、イギリスによるEU離脱の決定でしょう。EUというのは、ヨーロッパに2度にわたる凄惨な戦争をもたらしたナショナリズムを乗り越え、国境を限りなく低くすることで戦争の危険を遠ざけようという壮大なプロジェクトでした。その試みがイギリスの国民投票によって、ナショナリズムからのしっぺ返しを受ける結果となり、国境を物理的にも高くすべきだと主張するアメリカのトランプ大統領候補など、世界中のナショナリストを勢いづかせています。気の早い論者はこれでもうEUも終わりだとまで言い始めました。

【参考記事】EU離脱派勝利が示す国民投票の怖さとキャメロンの罪

 そんなご時世に、「東アジア共同体」なんて日本でも余り聞かれなくなった構想を持ち出すなんて時代遅れも甚だしいと言われそうです。しかし、そんなときだからこそナショナリズムの超克を夢想し、ナショナリズムへの潮流に逆らいたいのです。

EUはイギリスなしでも続く

 実際にヨーロッパに4カ月住んでみた印象では、ヨーロッパ統合の枠組はすでに人々の生活のなかにすっかり根を下ろしており、イギリスが離脱してもEUは崩れない、というのが素人としての私の直感です。特に、2004年以降にEUに加盟した中東欧諸国の多くは一人あたりGDPが顕著に上昇しており、EU加盟のメリットを実感しているので、自らEUから離れていくことは考えにくいでしょう。イギリスやドイツなど域内の高所得国も、域内市場の拡大や中東欧からの労働力の供給といったメリットを得ていたはずです。国民の一部が離脱派のデマに踊らされた結果、EUに残留することのメリットについての冷静な議論を圧倒してしまった、というのがイギリスの国民投票結果に関する大方の専門家の解釈だと思われます。

【参考記事】中国と東欧はどっちが先進国?

 国境が頑強に高くそびえ立っている東アジアから来た私などは、むしろ世界の秩序が国民国家の枠組を前提に成り立っているなかでいったいなぜEUのような奇跡が可能になったのだろうかと考えてしまいました。

【参考記事】共同市場創設が促す「大陸統合」の可能性



 愚考するに、2度にわたる大戦争への反省といった政治的理由もさることながら、ヨーロッパの構成メンバーの「粒が揃っていた」こともEUの形成へ各国が積極的になれた重要な要因ではないかと思います。EUの前身であるEEC(ヨーロッパ経済共同体)の発足時のメンバーを考えてみると、西ドイツ、フランス、イタリアという3大国とベネルクスの3小国があり、いずれの国も域内総人口の3分の1を超えませんでした。それ以来、加盟メンバーは増える一方ですから、結局一つの国の人口が全体の3分の1を超えることはありませんでした。

 東西ドイツの統一によってドイツが突出した力を持つようになったと警戒する向きもありますが、2015年現在、ドイツはEU全体のGDPの21%、人口の16%を占めるのみであり、EU議会の751議席のうち96議席を持っているにすぎません。いわば「小粒」の国の寄せ集めだからこそ、どこかの国に引きずられるという警戒心を持たずに多くの国が主権を一部放棄してまでEUへの加盟に乗り出したのでしょう。

ヨーロッパの国々は大小粒ぞろい

 その観点から東アジアをみると、まず国々の粒が全く不揃いであることに気づきます。2015年の人口をみると、中国(大陸)が一国で東アジア全体の61%を占めてしまっています。ちなみに、ここでは東アジアをASEANの10カ国に日本、中国、韓国、北朝鮮、台湾、香港、マカオを加えた範囲とします。台湾、香港、マカオは独立した「国」ではありませんが、東アジア共同体を作る際には中国の一部としてではなく、独自の身分でメンバーになる可能性があると考えて別立てにしました。また、東アジア共同体が仮にできるにしてもずいぶん先の話でしょうから、それまでに朝鮮半島の和解、さらには南北統一が実現している可能性もにらみ、北朝鮮も東アジアの範囲に入れてあります。

 中国が一国で東アジアの人口の6割を占めているので、仮にEUのように議会の議席数を人口比で配分するとしたら、「東アジア議会」では中国が単独過半数ということになってしまいます。逆に一国一票にしたら中国にとってはきわめて不利になります。共同体を作るときに、どのようなルールで意志決定を行うかがきわめて頭の痛い問題となります。

 もう一つ、東アジアが不揃いな点は、一人あたり所得のばらつきが大きいことです。ヨーロッパの場合、EEC時代の1960年時点で、一人あたりGDPが最高だったのはフランスで1338ドル、最低はイタリアの804ドルで、変動係数(=標準偏差/平均)を計算すると19%ということになります。2004年以降、EUは一人あたりGDPが低い中東欧諸国を加えたので、変動係数は大きくなりますが、それでも2015年時点で55%です。



 一方、東アジアでは、小泉純一郎首相(当時)が日本の首相として初めて「東アジア共同体」に言及した2002年には、人口では東アジアの6%でしかない日本が、東アジアのGDPの55%を占めるという突出した経済力を持っていました。同年の東アジアにおける一人あたりGDPの変動係数は114%でした。
 
 もしその時点で東アジア共同体が形成されていたらどうなったかを想像してみましょう。「共同体」というからには、そのなかの豊かな部分から貧しい部分へ所得を再配分する仕組みが作られるはずです(もしそういう仕組みがなく、逆に貧しい部分を豊かな部分が搾取する仕組みがあるとすれば、それは「共同体」ではなくて「帝国」と呼ぶのがふさわしいと思います)。唯一の富裕国である日本が東アジアの他の部分を助けるという構造になっていたことは疑いなく、それは日本にとって余り魅力的とは言えません。もちろん、東アジア域内市場の統合によって、域内の貧しい部分を支える負担を上回る経済的メリットが生じることを統合推進派は主張するでしょうが、2002年の時点では域内市場にどれほど期待できるのか日本企業の多くは懐疑的だったでしょう。

中国がバラバラに加盟すれば

 東アジアではその後低所得国のキャッチアップが進んだので、一人あたりGDPの変動係数は2015年には105%まで縮まりますが、それでもヨーロッパに比べるとばらつきは依然として大きい状況です。

 こういう状況でEUのような高度な経済統合を東アジアでおこなったら何が起きるか想像してみましょう。東アジア共同体のなかで富裕なメンバーは日本、シンガポール、ブルネイ、韓国、香港、台湾と、少数にとどまるので、共同体の中で富裕国に不利な決定がおこなわれる可能性が大です。従って、現時点では経済的観点から東アジア共同体をみた場合、日本など域内の先進国にとっては余り参加するインセンティブがないことは否めません。それよりもモノとサービスの流動性を高めるだけの自由貿易協定(FTA)を結んで、負担は回避し、薄くてもいいから経済統合のメリットだけを得ようということになりがちです。

 しかし、もし中国が一つの国としてではなく、31の省・市・自治区(および台湾省、香港特別行政区、マカオ特別行政区)としてバラバラに東アジア共同体のメンバーになるとすれば、様相ががらりと変わります。



 中国のなかでも北京、上海、天津の3直轄市は一人あたりGDPがすでに1万7000ドル前後ですし、江蘇省も1万4000ドルで、これらはすでに世界銀行の「高所得国」の水準にあります。この4か「国」の人口は合わせて1億4000万人を超えています。さらに人口5500万人の浙江省、人口1億人の広東省も「高所得国」入りは間近いと思います。

 中国を30以上の地域にばらしたときに、東アジアがどう見えるかを図にしてみました。この図のなかの箱は一つの国や地域を表し、その高さはその一人あたりGDPを、幅はその人口を表します。従って、箱の面積は各国・地域のGDPを表します。


 
 一番右端に線のように見えるのはシンガポール、香港、ブルネイです。一人あたりGDPは高いものの、人口が少ないので、仮に東アジア共同体のなかで人口比によって議席が割り振られるとすれば小さな発言権しか得られないでしょう。

ナショナリズムを超えて

 この図を見ると、高い所得と比較的大きな人口をもった日本は、箱の面積(GDP)で言えば東アジアのなかでかなり突出した存在のように見えます。しかし、仮に中国の江蘇省、浙江省、広東省あたりが一人あたりGDPで2万ドルぐらいまで伸びてくると、東アジアの様相もかなり変わってきます。ヨーロッパのように粒の大きさが近い高所得「国」が4つも5つもできてきます。日本にとっては高所得「国」の仲間が増えるので、高所得国に不利な決定が行われる可能性が相対的に小さくなります。広東省までが高所得「国」になるのはいつかと言えば、私はそう遠くない未来、すなわち2020年を過ぎるころには到達している可能性が高いと思います。

 中国がバラバラになって東アジア共同体に加盟するというこのアイデアがいまの中国で受け入れられる可能性については残念ながら悲観的にならざるを得ません。国家統合をかえって強めているような中国の現状では、仮に夢想としてであれ、こんなことを口にすることさえ憚られる状況です。

 しかしそれでも、いつか東アジアがナショナリズムの悪循環を乗り越え、国境を越えた連帯で結ばれる日が来ることを願わずにはいられません。

丸川知雄

最終更新:9/2(金) 8:50

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