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荻野洋一の『アメリカン・スリープオーバー』評

リアルサウンド 9/2(金) 14:21配信

 「アメリカのお泊まりの神話」(The Myth of the American Sleepover)という、あまりにも美しい原題をもつ映画が、東京の片隅でひっそりと上映されている。都心劇場での上映はなく、下北沢駅からかなり離れた50席にも満たないインディーズ系ミニシアターでの単館上映という、決して恵まれた興行環境ではないにもかかわらず、上映会場では若い観客を中心に自然発生的な熱気が生じている。小さくて取るに足りない、しかし明らかにアメリカ映画の一大事であるこの2010年作品を自分の目で確かめておかねば、という鋭敏なアンテナが嗅ぎつけた熱気である。

 『アメリカン・スリープオーバー』は、今年の正月に公開されて一部観客のあいだで支持を受けた低予算ホラー映画『イット・フォローズ』のデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督が、『イット・フォローズ』の4年前に作った第1作である。まだこの2本しか長編を作っていないデヴィッド・ロバート・ミッチェルだが、アメリカ人の生を独自の視点でとらえることができる作家として認められた。彼は現在、2017年公開をめざしてクライムサスペンス『Under the Silver Lake』を準備中である。

 本作はいわゆるスモールタウンものの青春群像劇で、ミシガン州メトロ・デトロイト(デトロイト都市圏)の郊外住宅地クローソンで撮影されている。クローソンは監督の出身地であり、自伝性の強いロケーションだ。やはりメトロ・デトロイトの各所でロケされた『イット・フォローズ』も、クライマックスとなる屋内プールのシーンはクローソン高校で撮影された。ようするに『イット・フォローズ』は、ホラーテイストを加味された『アメリカン・スリープオーバー』のヴァリアシオン(変奏)なのである。『イット・フォローズ』同様、『アメリカン・スリープオーバー』にもまったく親たち、大人たちは登場しない。

 アメリカの青春映画でよく描かれるものとして有名なのは、「プロム」という、ハイスクールの卒業時などにおこなわれるパーティで、ホラー映画『キャリー』(1976)などでもわかるように、装飾されたハイスクールの体育館が会場となる。そして「スリープオーバー」(お泊まり会)。これも高校生たちの夏の風物詩で、9月が新学期であるアメリカにおいては、仲のいいクラスメートたちとの最後の思い出づくりのために皆で誰かの家に泊まって雑魚寝したり、大学主催で入学前の新入生たちの初顔合わせの場が提供されたりするらしい。

 スリープオーバーの一夜を描くということは、アメリカの高校生の青春のクライマックスを描くということであり、少年期/少女期の終わりを描くということにもなる。この一夜に、彼らは思いの丈をぶつける。または、思いをあえて無為に外してみせる。ある者は一晩中楽しみ、ある者はパートナーを見つけ、ある者は仲間はずれとなり、ある者は故郷との別れの儀式とする。

 夏という季節がかもす解放感、しかしそれは秋の跫音を聴くことでもある。元気に湖で泳いだマギーは、にわかに立ちこめる五大湖地方の冷気に身をすくめる。そして突然に降り出す雨がすばらしい。その真夜中の雨は彼らの熱い夏に文字どおり冷水を浴びせ、青春の終わりを容赦なく告げる。そしてスリープオーバーの仕上げに登場する、何かの施設の廃墟。朝の光が射しこむのを拒むかのような暗闇に、ピチャピチャと激しく打ちつける雨音が、劇的な効果と寂寞感を生んでいる。カップルたちが2人きりになるために、あるいは仲間からはぐれた孤独者たちが最後の出逢いを願って吸い寄せられる廃墟。高校生たちの未来図でもあるような、脳内の妄想径路でもあるような、この空虚の場の記憶を、彼らは死ぬまで消去することができないだろう。

 青春映画とは、時限付きの映画である。時間制限もなくただダラダラと続く青春映画などロクなものではない。青春は時が限られているからこそ、無償の輝きを放つのではないか。アニエス・ヴァルダ監督の『5時から7時までのクレオ』(1961)はその条件を極端に追求したがゆえに孤高の輝きを得て、青春映画の頂点に達したのだ。ガンの検査結果を待つ女性クレオが、短い休暇をもらった兵士と出逢う。兵士が最後に戦地アルジェリアに旅立つまでのほんの短い時間のうちに、彼らの不安、生と死の揺れ、心と心のふれあいが生み出され--『5時から7時までのクレオ』は、人間の生のはかなさ、そしてかけがえのなさをあまりにも美しく語った、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグの真珠のひとつと言っていい傑作である。

 アルジェリア戦争という世相を背景とする『5時から7時までのクレオ』ほど張りつめた緊張感はないにしろ、『アメリカン・スリープオーバー』はアメリカの青春神話(Myth)の傑作として、後世に名を残すだろう。これといって大事件が起こるわけではない。登場する若者たちは、いまだ何者でもない。彼らの一人が言う。「きょうは人生の終わりの日」と。彼らには、このあと大学に進学したり、社会に出たり、結婚したり、子供を育てたり、たくさんの人生が待っている。でも未決定のうちに揺れることの許された時間は、きょうをもって終わりを告げ、あとは自立した主体として、良き選択を求められていく。揺れたり、停滞したりすることは許されない。

 何者でもない揺れの中の人生の終わりと、選択の人生の始まり--それをはっきり言ってしまうと、死へのカウントダウンでもある--が交差するあわいの時間としての「スリープオーバー」を、デヴィッド・ロバート・ミッチェルは、故郷のクローソンを舞台に万感の思いをもって静かに写し、俳句のように閉じこめた。

荻野洋一

最終更新:9/2(金) 14:21

リアルサウンド

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