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『君の名は。』はなぜ若い観客の心をとらえた? 新海誠の作風の変化を読む

リアルサウンド 9/3(土) 11:11配信

 日本を代表するメロドラマのタイトルをほぼそのまま引用する劇場用アニメーション『君の名は。』が、若い世代の観客を中心に大ヒットしている。この事態は、今までの新海作品を見ていて、その作風を知っている者なら誰もが驚くはずだ。

 ときに人は、夕暮れや朝焼けの風景を眺めながら、ムードに酔ってポエムのような感傷的セリフをつぶやいたり、手紙やメールを送ってしまうことがある。そういった状態は通常、いったん時間をおけば「治る」ものであり、思い出して「こんなこと言わなければ良かった…」と落ち込んでしまった経験が、誰にでもあるのではないだろうか。そこで反省せずに、あまつさえその感覚をアニメーション作品にまでしてしまうのが、新海誠監督だ。

 本作の冒頭、おちてゆく星が空に作り出す帯に太陽光があたり、細い影が出来ていく幻想的な光景に登場人物の独白が被さってゆくシーンに代表されるように、新海作品のなかでは、キャラクターの魅力や動画の快感よりも、レンズフレアや光の粒子などの実写的なエフェクトが散りばめられるリアリスティックな背景と、言葉を利用した内面の説明、これらを包括する詩的なムードこそが、表現上の最も重要なものとなっている。登場人物たちは、仕事や生活に追われながら、ふと立ち止まり、雑踏の風景や部屋の中を眺めながら黄昏(たそが)れる。その瞬間こそが、彼らが世俗をはなれ、本当の純粋な彼らでいられる時間であり、そこを切り取ることで一種の美学を生み出しているといえよう。

 新海作品を語るときに欠かせないのは、「セカイ系」と呼ばれる、自分の周囲の大事な人間が、世界の存亡と同じ重みを持つという内容を持った作品の存在である。これらの作品が流行した直接的原因に、アニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン』がある。世紀末を席巻した「エヴァブーム」に、多くのクリエイターが影響され、それ以後、庵野秀明演出のほとんどパロディーのような、無邪気な表面的模倣がアニメ界を中心に氾濫した時期があった。新海誠監督は、かつてそういうクリエイターの代表例であったといえる。

 このような手法によって描かれるのは、多くの場合、男女のせつない恋愛と郷愁である。同じく、時代の強い影響のもとに描かれた漫画作品『最終兵器彼女』や、日本でもヒットした韓流ドラマ『冬のソナタ』がそうであったように、ときに残酷で汚い世界の中で、主人公たちの恋愛感情だけが純粋なものとして輝いていくという描き方は、最も保守的な部類の、あまりにもナイーヴな恋愛表現である。この男女間の変わらぬ信頼や貞節は、たしかに昭和の「君の名は」が持つ古典的観念とも通底しているように見える。ただ、新海作品を「メロドラマ」だとするのには抵抗を感じるのも確かである。新海作品には、もはや戻ることはない幸せな過去を振り返り続けるという後ろ向きな姿勢がひたすら描かれ、その自分を客観的な目で見ることに、ある種の自己陶酔的な暗いよろこびを見出すという屈折したコンプレックスが横たわっているからだ。新海誠監督の恋愛観そのものは、本来は同じような感性を持った10代の観客と最もシンクロするはずだ。しかし、この恋愛観を届けるべき対象を、監督は自ら、個人的な内省的演出によって遠ざけていたのである。

 それでは、なぜ本作は若い観客に支持されたのだろうか。そのカギは、前述したような本質部分はそのままで、表面的な装いをガラッと変え、陰鬱なイメージを払拭したところにある。本作は、新海監督の最大規模の企画として、安藤雅司や田中将賀を始めとする、アニメ界の大物スタッフを集めたことで、アニメーション作品としてのベーシックな魅力が急激に高まっている。キャラクターが生き生きと動き回り、喜怒哀楽の表情を見せてくれるのだ。さらに主題歌が流れる、いかにも若年世代に向けた商業アニメ作品らしいオープニング・アニメーションまである。

 ロックバンド RADWIMPS の功績はあまりにも大きい。ここでの前向きで疾走感のあるギターサウンドとヴォーカルは、後ろ向きで緩慢になりがちな新海作品の世界観を、表面的に中和するのに十分である。だが、過去作『秒速5センチメートル』での山崎まさよしの主題歌があまりに能弁過ぎたように、ここでも楽曲の力に頼り過ぎているきらいがある。音楽のムードに耽溺するあまり、曲の展開に合わせてわざわざカットをつないでしまったりなど、音楽が映像を盛り上げるのでなく、ミュージック・ヴィデオのように、映像が音楽に従属してしまっているのである。しかし本作の人気は、むしろこの音楽を主体にしたムードの盛り上がりにこそあるのも確かだ。

 物語の前半は、大林宣彦監督の『転校生』のような、高校生の男女の肉体が入れ替わり騒動を起こすという、軽いラブコメ風に展開していく。ここで注目したいのは、女性の身体になった男子高校生が思わず自分の「おっぱい」を揉み、逆にヒロインは、股間にあるモノを手で握ってみるという描写だ。これは「入れ替わりもの」として常道のシーンのようであるが、新海作品としてはあまりに異質な下品さを持っている。だが一般的な高校生であれば、間違いなく「確認作業」を行うに決まっている。共感を呼ぶためには、絶対に通らなければならない描写なのだ。そして、「おっぱい」という小さなスケールをくぐり抜けることで、後半に起こる「天文現象」という大スペクタクルにもリアリティが与えられることになる。

 これら、「非・新海」的な要素が本編にまんべんなく振りかけられることによって、本作は「メロドラマ」としての構成要件を満たすことができている。そのおかげで、紛れもなく新海作品でしかないような、後半の内省表現にも観客はのめり込んで観ることができる。つまり、いままでの新海的な要素もひっくるめて、多くの観客に評価されたということである。

 しかし、設定にはところどころ破綻が見られる。そもそも「身体の入れ替わり」とは何だったのか。巫女の血筋であるヒロインには、超常的な力が付与されていることから、ある程度観客側が理由を補完することが可能だとしても、なぜ彼女が乗り移る対象が「彼」でなければならなかったのか。娯楽に徹した作品ならばとくに必要だと思われる、基本的な部分での論理的説明が欠けているのだ。それは本作の脚本が、ドラマの盛り上がりを中心に考案されたものであるからだろう。だから、実際の震災をモチーフにしたと思われる「災害」も、恋愛劇の背景にしてしまう危うさすら持っている。

 このような論理的欠如をかろうじて成立させようとするのが、「組紐(くみひも)」という、人間の思考を超えたところにある「絆」の存在だ。これは「赤い糸」の伝説のような運命論的な恋愛関係のイメージである。内的世界へダイブする主人公が目にするのは、「組紐」が「へその緒」という、母と子のつながりに変遷する瞬間である。子が親を選べないように、ここでは、人と人とのつながりも、あらかじめ決められた運命のなかにある。

 本作には『月刊ムー』という、実際のオカルト雑誌が小道具として登場する。80年代、「ムー」の文通相手を募集するコーナーで、「前世ブーム」なるものが起こったことを知っているだろうか。そこでは文通相手の条件が、「前世に関わりがあった人」でなければならず、前世の記憶にあるキーワードや名前を伝え合うことで、彼らはお互いにスピリチュアルな関係を築こうとしていた。これが流行った背景には、現実の人間関係への疲弊や、利害を超えた、たしかな絆を結び合いたいという想いがあったからだろう。そのようなコミュニケーションを超える「強い」人間関係への希求というのは、現在も変わらず存在し続けているはずだ。本作で主人公が、バイト先の魅力的な先輩という「他者」でなく、自分と合一したスピリチュアルな存在を求めてしまうのは、「論理を超えて誰かとつながっていたい」という願望の発露であり、それこそが運命的な「組紐」の正体であるはずだ。しかしそれは、内的世界への退行願望でもある。

 新海作品の表現の原点ともいえる『新世紀エヴァンゲリオン』が、現実という向かい風のなかで、ときに後退しながらも、少しでも前に進もうという意志を描いた作品であるのに対し、いままでの新海作品は、後ろ向きの方向にじりじりと後退し続けてきた印象を受ける。しかし、本作『君の名は。』の印象は少し違う。この作品には勢いがある。疾走感がある。だが向かう先はやはり後方である。新海監督は今回、迷いなく後ろを振り返ることで、向かい風を追い風に変えて、ついに後ろ向きにものすごいスピードで全力疾走を始めたのである。その鬼気迫る速度が観客を圧倒し、強引に論理や倫理をねじ伏せた。それは作家が信念を持って、自分の描きたい感情を、全く前方に振り返ることなく描き尽くしたからこその結果に他ならない。

小野寺系(k.onodera)

最終更新:9/3(土) 11:11

リアルサウンド

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