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出場選手が証言。52年前の東京パラリンピックは何が起きていたのか

webスポルティーバ 9/6(火) 11:22配信

 今や、多くの日本人選手が世界を舞台に戦う時代になった障がい者スポーツ。その活躍の始まりともいえる大会は、今から52年前に遡る。東京で初めて五輪が開催されてから1カ月後、1964年11月8日に代々木の選手村で開幕した東京パラリンピックだ。日本からは、53人の選手が出場した。しかし今とは違い、この大会に出場した日本選手の多くは、日本の障がい者スポーツに尽力した中村裕(ゆたか)医師の患者の人たちだった。

【写真】大分中村病院理事長・中村太郎氏。「パラリンピックの父」と呼ばれる父親の中村裕氏遺志を受け継ぎ、パラスポーツにも深く携わっている

 当時の日本は、脊髄損傷になれば“寝たきりになる”というイメージが定着しており、スポーツはもちろん、仕事に就くこともなかなか考えられない時代。22歳で東京大会に出場した須崎勝己さん(74歳)もまた、中村医師のもとで治療を受ける患者のひとりだった。

 20歳のときに、バイクで事故を起こし脊髄を損傷した。このまま寝たきりになるのか……と思っていた矢先、転機が訪れる。当時の担当医が、脊髄損傷のリハビリなど新しい取り組みをしていた中村医師のいる国立別府病院を紹介してくれたのだ。その転院をきっかけに、須崎さんの人生は大きく変わっていった。
※インタビュアー:伊藤数子氏(NPO法人STAND代表)

伊藤数子氏(以下、伊藤):転院されてすぐにスポーツを始めたんですか?

須崎勝己氏(以下、須崎):そうですね。もちろんパラリンピックの存在も知らなかった頃に、中村先生が訓練士の人たちに、「スポーツをやろう」と言ったんです。でも、パラが決まるまでは、スポーツというよりは、日常生活に必要な筋力をつけるような歩行練習が中心でした。

伊藤:「パラに行くぞ」という話になったときはどう思われましたか?

須崎:「ええ!」と驚きました。人とスポーツするのは楽しいことでしたけれど、私なんかができるんじゃろうかと。患者のなかでも、私はケガをしてから一番日が浅かったので、動けるのか不安でした。

伊藤:東京への移動は何を使ったんですか?

須崎:大分空港から40、50人乗りのプロペラ機で伊丹まで行って、伊丹でちょっと大きい飛行機に乗り換えて行きました。当時は直通がなかったんだと思います。「富士山じゃー!」って、みんな喜んでました。田舎から出たことないですから。羽田に着いてから、高速道路に乗って選手村に向かったんですけど、そのときも病院のテレビで見たことがある海の下を通る高速道路は、「どんな風にして作ったんじゃろ」って話していたのを覚えています。

伊藤:大会では、複数競技に出場されていますね。

須崎:車いすバスケットと平泳ぎ50m、陸上では100mと、丸い的に向けて投げるやり投げに出場しました。ほかにもあったかな? もう忘れてきていますね。

伊藤:水泳の練習をする施設はあったんですか?

須崎:なかったんです。だから、ほとんど練習なしで本番でした。歩行訓練用の温泉で泳いだだけで、それも1週間に1回くらい。プールに入ったのは数えるほどしかありませんでした。

伊藤:不安でしたよね。

須崎:不安でしたけど、泳ぐことはできていました。ただ、東京に着いてから風邪を引いてしまって。体力がなくなっちゃって、水泳はダメかなって思ったけど、出てみろっていうから出たんですけどね(笑)。

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最終更新:9/6(火) 11:22

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