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引退後SLにハマった屋鋪要の生き方

Wedge 9/6(火) 12:20配信

「スーパーカートリオ」。1985年、高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足3人を打線に並べ、その機動力を武器に塁上をかき回す彼らを、当時の横浜大洋ホエールズの近藤貞雄監督がそう命名した。

屋舗の闘争心に火をつけた盗塁王・高橋慶彦の発言

 この年、この3人で記録した盗塁は148個。それぞれが40個以上の盗塁を決め、1チームで3人以上が40盗塁を記録したことは、プロ野球史上でもこの一度だけである。屋鋪はそのなかでもとりわけ足が速かった。この年、屋鋪の盗塁数は58個。しかし、盗塁王は73個の盗塁を決めた広島東洋カープの高橋慶彦。盗塁王こそ逃したものの、スーパーカートリオはそのネーミングに加え、時代の流れにも乗り、プロ野球界に歴史をつくった。そんな、波に乗っているシーズンオフの、ある日の出来事だった。

 「屋鋪は、まだまだだね」

 たまたまつけたテレビから聞こえてきた声。その主は高橋慶彦だった。

 「元々ね、俺は盗塁にそこまで興味がなかった。でもこの言葉で、絶対に負けたくないって燃えたよね」

 屋鋪は勝つためにあらゆる研究をした。スタートを切るときのフォーム、スライディング、そして相手投手のクセ。やると決めたら、やりぬく。屋鋪は、86年から88年まで、3年連続で盗塁王を獲得した。

 兵庫県川西市。屋鋪の野球人生はここから始まった。小学校4年生から高校に入るまで、ポジションはずっとキャッチャーで、外野手となったのは高校に入ってからのことだった。

 それでも、後にプロ野球で代名詞となる守備力と盗塁には全く興味がなかったという。

 「遠くに飛ばすことしか考えていなかった。そのために体をデカくしたくて、1日6食食べていた」

長距離砲目指した屋舗が感じたプロの壁

 その甲斐あってか、身長は1年で8センチ伸び、ホームランの飛距離がプロのスカウトの目に留まるほどに力をつけた。屋鋪はドラフト6位で横浜大洋ホエールズから指名を受けた。

 「バッティングで生きて行く」そう心に誓って入団した屋鋪であったが、いきなりプロのレベルを目の当たりにすることとなる。

 「田代さんや松原さんのバッティングを見てさ、これは絶対に勝てないって思っちゃったね」

 決して通用しないわけではない。しかし、その道を究(きわ)めていくには、あまりにも土俵が違うことに気づかされた。それでも、屋鋪には超一流の足と肩の強さがあった。

 「お前、足が速いんだし、左でも打ってみたらどうだ?」

 2年目の屋鋪に、当時の監督であった別当薫が声をかけた。ホームランバッターに憧れてプロ入りしたが、生きて行く道がそこにないことを悟った屋鋪は、すぐさま路線を変更した。

 「自分に合っていないことをやるのは、時間の無駄だから」

 やると決めたらやりぬく男である。「俺ほど練習したやつは、後にも先にもいないだろう」と語るほど、猛練習の日々が始まった。

 試合前にもかかわらず、打ち込みは500球を超え、年末年始もなく練習に明け暮れた。同じ頃、日本体育大学陸上10種競技出身のトレーニングコーチに走り方を教わり、スタートの形や一歩目の幅など、専門的なトレーニングを行った。

 「どんどん走るのが速くなって、生まれて初めて盗塁に興味を持った」

 以来、長い距離を走ることには一切目もくれず、短距離のダッシュを繰り返した。「時間の無駄」という自らの哲学を貫き、屋鋪は盗塁という武器を確かなものとした。

 「グラウンドの硬さに、耐えきれなかったんだろう」

 92年に左膝を手術。チーム名が横浜ベイスターズに変わったころから、パフォーマンスは少しずつ落ちていった。93年、今度は右膝を手術し、その傷も癒えぬシーズンオフ、契約交渉の場に着いた。

 「FA権を持っていた当時、行使するしないの基準が球界全体で曖昧だった。そのいざこざでもつれて、自ら『自由契約にしてくれ』と申し入れた」

 横浜一筋16年。スーパーカートリオの屋鋪は、横浜を退団した。その後読売ジャイアンツに移籍。1年目は優勝に貢献するも、2年目に球団から戦力外通告を受けた。プロ18年、屋鋪のプロ野球人生は幕を閉じた。

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最終更新:9/6(火) 12:20

Wedge

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