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1964年の日本代表選手は「パラ出場の自信で顔つきも変わった」

webスポルティーバ 9/7(水) 19:00配信

 日本の障がい者スポーツの歴史を語るとき、1964年に行なわれた東京パラリンピックは欠かせない。当時の日本人が抱いていた“障がい者”のイメージを覆す外国人選手の活躍や、仕事をして結婚もしているという話は、出場していた日本人選手やその家族にとって衝撃的だった。

【写真】1964年の東京パラオリンピックで、日本のユニホームを着て入場する53名の選手たち

 そういった影響を受け、障がい者スポーツを日本に広め、東京パラでは団長も務めた中村裕(ゆたか)医師も、翌年に、「保護より働く機会を」を目標に掲げ、障がい者の人々に働く場所を提供する『太陽の家』を大分・別府に設立した。

 当時、脊髄を損傷すれば寝たきりになるのは仕方のないことと思われていた時代に、中村医師のもとで脊髄損傷の治療やリハビリを受けていた須崎勝己さん(74歳)は、22歳のときに東京パラリンピックに出場した。そこで受けた数々の刺激を大分に持ち帰り、その経験を糧にして「しっかり働こう」と心に決めたという。
※インタビュアー:伊藤数子氏(NPO法人STAND代表)

伊藤数子氏(以下、伊藤):パラリンピックが終わって大分に戻り、就職をされました。義肢装具師という仕事を選んだのはなぜですか?

須崎勝己氏(以下、須崎):選択肢がなかったんです(笑)。もともと職人気質でしたから、作ること、手を動かすことが好きだったのもあります。大工のときは親方の徒弟制度だったから、何もなかった時代でした。だから義肢装具師になってから給料5千、6千円をもらえたときはうれしかったですよ、初めてでしたから。

 入院しているときの写真と、働いてからの写真は全然顔が違うんです。やっぱり自信が出てくるのか、顔が変わるんですよ。病院にいるときは、退院してから仕事はあるんだろうか、親に迷惑をかけたくないとか考えていました。寝たきりではなく仕事に就けたのも、中村先生のおかげだと思っています。

伊藤:職場にはほかにも障がいのある方がいらっしゃったのでしょうか?

須崎:最初、私と車椅子の方々と3人で一緒に入ったのですが、ひとりまたひとりと辞めて最後は私だけになりました。

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最終更新:9/7(水) 19:00

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