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キュレーターズ(4):「縦」のフートと「横」のマルタン - 小崎哲哉 現代アートのプレイヤーたち

ニューズウィーク日本版 9/8(木) 15:30配信

<現代アートとは何かを考えるために、ふたりの天才的キュレーター、ヤン・フートとジャン=ユベール・マルタンを対比することは絶好の糸口になる。今回は、ふたりの生まれ育ちやキャリアを比較し、その発想の違いを考える。>

前回記事:キュレーターズ(3):ヤン・フート----「閉ざされた回路」の開放

 ヤン・フートは、『オープン・マインド』展を企画した24年後、死の1年前に当たる2013年に、生涯最後となる展覧会『ミドル・ゲート・ヘール(Middle Gate Geel)』で再びアウトサイダーアートを取り上げている。このときの展示方法は『オープン・マインド』とはまったく違う。だが、展覧会についての説明は後に回して、フートの生まれ育った環境について述べておきたい。同展にも、そして『オープン・マインド』にも、それが大きな影響を及ぼしているからだ。

『ミドル・ゲート』


 フートは1936年、77年後に『ミドル・ゲート』を開催することになるヘールに生まれた。父親のヨゼフ・フートは何と、ヘールの国立コロニーで働いていた医師で、しかもアート作品の収集が趣味だった。「何と」というのは、国立コロニーが精神医療の家庭看護を管轄する機関であるからだ。フートは後年、「親父は精神科医でアートコレクターでもあった。私はそういう世界に生まれてきたんだ」と語っている(イアン・マンデル「Middle Gate: art for open minds」。2013年10月23日付フランダース・トゥデイ)。

 ヘールと精神医療の関わりは、中世以来の聖ディンフナ信仰に始まる。ディンフナは7世紀にアイルランド王の娘として生まれた。父は異教徒で母はキリスト教徒。14歳になってキリスト教を選んで純潔の誓いを立てるが、ほどなくして母親が亡くなる。妻をこよなく愛していた王は錯乱状態に陥り、妃と生き写しだった娘に結婚を迫る。ディンフナは自分の贖罪司祭と逃亡を図り、海を渡ってヘールに辿り着いた。

 伝説には様々なバージョンがあるが、一説によれば、ディンフナは貧者や病者を救おうとして慈善病院を建てた。ところがその話がアイルランドにまで伝わり、父王が乗り込んでくる。父王は司祭を殺し、娘に母国に帰って自分と結婚しろと促すが、娘は拒否。怒り狂った王は娘の首をはね、遺骸を残したまま帰国する。ディンフナはわずか15歳だった。

 純潔を守り抜いたディンフナは、その後、司祭とともに殉教者と認定される。1349年には、ヘールに聖ディンフナを讃える教会が建てられる。その後、心を病んだ父に打ち勝った聖女の強さと気高さにあやかるべく、ヨーロッパ中から精神病に苦しむ巡礼者が押し寄せてきた。ついには教会に収容しきれなくなったため、街の人々は自宅に精神病者を受け入れることを決め、家庭看護の伝統が始まった。1850年には国立コロニーが建てられ、今日では、ヘールは家庭内メンタルケアの先駆的な土地として、国際的に知られている。(Catholic Online、英語版Wikipediaなどから構成)。



現代アートへの愛

 フートはヘールで少年時代を過ごした。ベルギーの雑誌ヒュモが行ったインタビュー(2014年3月4日「Het lieve leven en hoe het te lijden: Jan Hoet」)によれば、当時、つまり戦前には2,000人以上の精神病者が近隣の家庭で看護されていて、フート家にも3人が滞在していたという。一家がヘールを離れた後でフート家の建物はリノベーションされ、いまでは「芸術の家 イエロー・アート」と名前を変えて精神病者や知的障碍者に美術教育を施している。まさにアウトサイダーアートが生まれる場になったわけであり、『ミドル・ゲート』の会場のひとつともなった。

 父親は同時代ベルギー美術、特に表現主義絵画とアフリカ美術への関心が強く、画家や彫刻家をたびたび家に招いた。息子をジェームズ・アンソールら著名な画家のアトリエに連れてゆくこともあり、若きヤン・フートは自然に美術に親しむことになる。画家になろうと思っていたが、才能の限界を悟り、大学で造形美術の教員資格を取得。高校で教鞭を執りつつ、28歳のときにヘント国立大学であらためて美術史を学び始める。1969年にウェストゥーク・アート・アカデミーを設立し、ここでも美術教育に従事する。前回記した通り、1975年にベルギー初の現代美術館SMAKの初代館長に就任し、生涯にわたって現代アートの普及と啓蒙に努める......。

 フートの現代アートへの愛が並々ならぬものであったことは、多くの人々が語るところである。2014年に亡くなったとき、あるアートフェアのディレクターは「アーティストが誰よりも優先されるということをよくわかっていた。信じがたいほど情熱的で、生涯を通じてアートとアーティストに身を捧げた」とその死を惜しんだ(アン・ビンロット「A Curator's Collection, Revealed」。2014年4月26日付ドキュメント・ジャーナル)。ベルギーの首相は「我が国のアート界は父親を失った」と嘆き(2014年2月27日AP「Belgian modern art director Jan Hoet dies at 77」)、フランドル(フランダース)政府の文化大臣は「ヤン・フートはアートに突き動かされていた。彼の最も偉大な功績は、現代アートの壁を叩き壊したことだ」と讃えた(2014年2月27日付フランダース・トゥデイ「Art curator Jan Hoet dies in hospital in Ghent」)。
 
 画家のリュック・タイマンスは「ヤンにはカリスマ性があり、わかりやすい言葉でアートについて語るという強い信念を持っていた。その方法で、非常に多くの人々を引き寄せることができたんだ」と述べた(上述のAP配信記事)。タイマンスはアートフォーラムにも寄稿し、育ての親とも呼ぶべきキュレーターを追悼した。

「ヤンの死とともに、ある時代も失われつつある。かつてハラルド・ゼーマンのような人々が押し進め、いまでもカスパー・ケーニッヒやルディ・フックスのような人物の中に残っている時代のことだが、キュレーターはほとんど神話的な存在にまで押し上げられた。今日の多くのキュレーターとは違って、ヤンは情熱的で、作家や作品の選択については断固として妥協しなかった。それは本能と直感から生まれたものだったが、今日ではほとんどの展覧会はとりとめなさの産物だ。それはおおむね、1980年代の社会学に由来している」(2014年4月16日付)



「彼は自分の体をプレゼントとして提供した」

 最も感動的で衝撃的なのはアーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチの回想だと思う。以下、本人がアートフォーラムに寄稿した記事(2014年4月11日付)から抜粋する。




「ヤンとは、彼が1986年の伝説的な展覧会『シャンブル・ダミ』をキュレーションする直前に出会った。私たちは即座に友達になった。彼のエネルギーと、何に対するにせよ華やかなアプローチは、すぐに私を虜にした」

「ヤンは私の50歳の誕生日に合わせて、ヘントで大規模展をやらないかと誘ってくれた。私は、折角だからアルゼンチン・タンゴの夕べを設けたいと提案した。ヤンはこの提案に夢中になった。私たちはイベントを『アージェント・ダンス(緊急のダンス)』と名付け、その一夜のために非常に厳格で適切なルールをつくった」

「イベントの日が近づいてきたので、私はヤンにケーキがほしいと話した。彼は怒り狂い、バースデーケーキを要求するなんて何てブルジョワ的なんだと言った。実はヤンは(中略)、私のヌード写真をベルギーでいちばんのパティシエに渡していた。パティシエはマジパンで等身大のレプリカをつくり、長年のパフォーマンスで私の体中に出来た傷痕をチョコレートで再現しさえした」

「イベントの夜、24時のちょうど10分前に、美術館の扉が開いてダンスが中断された。6人のトップレスの美男子が、大きなストレッチャーにボディケーキを載せて入ってきた。続いて6人の完璧にドレスアップした女性が、ケーキとまったく同じやり方で、ストレッチャーでヤンを運んできた。小さなボウタイを除いて全裸だった。彼は自分の体を私へのプレゼントとして提供したのだ」

「私はあの一夜のことを一生忘れないだろう」



親友はヨーゼフ・ボイス

 美術教師だったフートは、もちろんヘーゲル以来の美学や美術史に通じていた。だが画家タイマンスが語るように、フートは「わかりやすい言葉でアートについて語る」ことを旨とし、ハラルド・ゼーマンと同様に、ステートメントやインタビュー内に学者や理論家の名をほとんど出さなかった。

 誰よりも作家を優先し、作家にも愛されたフートは、現場主義者だったと言ってもよいだろう。キュレーターはすべからく現場主義であるべきだが、実際には必ずしもそうではない。ここは人の悪口を書く場所ではないから、現場主義でないキュレーターの実名を挙げたりする不作法は慎んでおこう。ともあれフートはアーティストと一緒にいることを、そして対話をすることを好んだ。息子のヤン・フートJr.は、父とヨーゼフ・ボイスとの交流をよく覚えている。

「9歳のとき、父に連れられてデュッセルドルフのボイスのアトリエに行きました。午後5時ごろに着いて、ボイスと父は話を始めたんですが、何を喋っているのか皆目わからない。ふたりは話し、話し、話し続けて、気が付くと夜の10時です。まったく面白くないし、おなかも空いてくる。そこで私は、絵を描き始めたんです。私は静かな子供だったんですが、描き終えたときに、ボイスが鉛筆を手に取ってサインをしてくれました」

「父が泣くのを見たことは一度しかありません。ボイスが亡くなったときでした。ボイスは父の親友だったに違いありません」(アン・ビンロット「A Curator's Collection, Revealed」。2016年4月26日付ドキュメント)

 近しい者の多くが認めているが、実際にボイスはフートの親友だった。そして、フートは自らの文章でボイスに触れることが間々あった。例えばドクメンタIXのステートメント(カタログ所収の「An Introduction」)では、マーシャル・マクルーハンの言う「グローバルビレッジ」が実現し、世界は小さくなっていると述べ、以下のように指摘する。

「ほとんどすべてのものが手に入る。我々はあらゆる種類の情報、印象、経験に数秒でアクセスできる。世界は細分化(アトマイズ)され、総体的(ホーリスティック)なビジョンは次第に失われてゆく。あらゆるものはイメージとなり、メディア化される」

「必要とされているのは壮大にして抽象的、超越論的なビジョンの召喚ではなく、我々を取り囲む世界を構成する物理的な要素への鋭い視線だ。(中略)細分化された経験の再構成。あらゆる科学システムを超えた再組織化。実存的な感覚ネットワークの再構築。これらがアートの目的に含まれることになる。身体について、もう一度話し合わなければならない。物理的にではなく感情的に。外見についてではなく精神的に。理想としてではなく、その傷つきやすさすべてにおいて」

「この点についてはボイスが扉を開いた。彼の作品は常に、自分自身の行動について責任を持てと我々に要求する」



湾岸戦争の衝撃

『オープン・マインド』が開催された1989年と、ドクメンタIXの1992年の間には、世界史的な大事件がいくつも起こっている。そのひとつに、1991年1月に起こった湾岸戦争がある。前年の夏に突如クウェートに侵攻したサッダーム・フセインのイラクに対し、米国大統領のジョージ・ブッシュ(シニア)が「世界新秩序」を目指すことを宣言。英国、フランス、サウジアラビア、エジプトなど34ヶ国からなる多国籍軍を編成して開戦し、大規模な空爆と地上戦で、わずか100時間でイラクを叩き潰した戦争だ。

 この戦争は、CNNなどのテレビ放送によってリアルタイム報道が盛んになされたことでも知られる。トマホークなどの巡航ミサイルによる空襲が生中継され、「あたかもテレビゲームのようだ」と評された。非戦闘地域にいる人々が、かくも広範囲に戦場を「ライブ」で見たのは史上初めてのことであり、非現実的な(まさにゲームのような)映像が、多くの人々の脳裏に癒しがたい傷のように刻まれた。

 ヤン・フートも例外ではなかった。フートは、ドクメンタIX開幕直前の1992年6月1日に、ハイナー・ミュラーおよびアレクサンダー・クルーゲと鼎談を行っている(「Alexander Kruge: cultural history in dialogue」に映像「The Art Snooper: Portrait of Jan Hoet, director of the DOCUMENTA in Kassel」とテキストが収録されている)。クルーゲはニュー・ジャーマン・シネマを代表する映画監督のひとり。ミュラーは、「ハムレットマシーン」などで知られる戦後ドイツを(というより戦後世界演劇を)代表する劇作家。こういう顔合わせが実現すること自体、ヨーロッパの奥深さを示しているといえるだろうが、映像で見る限り議論は、主にクルーゲの性急さが災いして必ずしも噛み合っていない。それでも、当時のフートを知るには非常に興味深い内容だ。

 バグダッド空爆の映像を、フートは怪我をして入院していた病院のベッドで見たという。ドクメンタを準備中ということもあり、開戦はアートの必要性に大きな疑問を投げかけ、フートは絶望しかけていた。ところが3~4日経って、フートはこの戦争に見るべきものは何もないことを、戦争はこのようには起こってはいず、すべては新しいコミュニケーションシステムが捏造したイリュージョンに過ぎないことを悟る。ジャン・ボードリヤールが(『湾岸戦争は起こらなかった』で)述べたところの「ヴァーチャル」である。焦点が当てられているのはスペクタクルだ。最も美しいクリスマスツリーが、バグダッド空爆という形を採って映像化されている。

 そしてフートは我に返る。自分は入院しているが、この戦争では、多くの人々が同じように病院のベッドに横たわっている。ほとんどが重症で、死にかけている者もいるだろう。だが、彼らを見ることは敵わなかった......。ちょうどそのとき、捕虜となった兵士たちの映像がテレビに映し出された。心の準備のないままに兵士たちの複雑な胸中と対面せざるを得なくなったフートは、そのとき初めて「アートのすぐ近くにいる」と感じたのだ。



歴史へのこだわり

 フートがこの時期に、現実とアートを強く結びつけていることを示すエピソードだが、もうひとつ注目したい発言がある。クルーゲの「ピカソの『ゲルニカ』は芸術だろうが、あれは戦争の一場面を描いている。バグダッド空爆とは何が違うんだろう」という質問に、フートは「アートはある言語システムを用いています。長い期間の内に進化してきたシステムです。エジプト、ギリシャ、中世、ルネッサンス、バロック、マニエリスム......。ある線的なプロセスですね」と答えている。

 同じ鼎談のほぼ冒頭で、フートはアフリカのアートについて問われていた。この種のトークの常で、話は脱線に脱線を重ね、違う方向に向かっていってしまった。ある意味でそれを補う答だったが、では冒頭の発言はどのようなものだったか。以下に訳出しよう。

「アフリカのアートは絶対的なもので、とはいえ内部に社会問題を含み込んでいます。生と距離を置かず、直接的につながっているアート。魔術ですよ。私はそれを、知的なコンセプトとしてのアートという我々の捉え方と差別化するために、アートというより魔術と呼びたい。アートの早い時期の歴史について我々が知っていることと、アートが本当にアートになった19世紀以来の歴史について我々が知っていることとを差別化するためにも」

 ステートメントなどに美術史家や理論家の名前を出さないフートは、とはいえやはり歴史を重んじるキュレーターだった。「縦の人」であるというのはそういう意味である。同時代、共時性が「横」で、過去から未来へと流れる歴史、通時性が「縦」。フートは再三にわたって「私にはアートが何であるのかはわからない。何であるのかを教えてくれるのはアート自身だ」という意味の言葉を書いたり語ったりしているが、アートが何であるのかを知るために、作品に次いで重要なのはアート史であると確信していたに違いない。

 逆に言えば、アートがどのように(「線的なプロセス」を通じて)進化してきたかを知らない限り、「いまのアート」を鑑賞するのは難しい、とフートは考えていたはずだ。『オープン・マインド』のイントロダクションで、フート(とフージー)は何と説いていたか。もう一度引用しよう。

「MFA(美術館)は美術史の複雑な綾を検証しなければならず、それは鑑賞者が部屋から部屋へと歩くことによって解き明かされるものです。ビジターが感覚的にして知的な経験をするのは歴史的に成長してきたコレクションの中においてです」

 そしてフートの腹心、ピエール・ルイジ・タッツィは、フートの意を受けて、ジャック=ルイ・ダヴィッドを起点に置いたモダン~現代アート史を説いていた。「アートが本当にアートになった19世紀以来の歴史」である。

『オープン・マインド』にアウトサイダーアートが組み込まれたのは、アートにはインサイダーもアウトサイダーもないということを主張するためではない。そうではなく、モダン~現代アートが成立するには、アカデミーとアウトサイダーアートという2つの極が必要であり、閉ざされていた両者間の回路が開かれたことがモダン~現代アート史を進展させたという見解を述べるためだった。同展がフィンセント・ファン・ゴッホに捧げられ、「精神医学」「アカデミー」「アート」という3つのパートが併置されたのは、それゆえである。そして、パブロ・ピカソの作品が出展されたのは「モダン~現代アート史」の「~」に当たる部分を意識させるためだった。すべてはアート史、すなわちアートなる表現領域の縦の流れに焦点を当てるためだった。付言すれば、ピカソの作品は『オープン・マインド』にも『ミドル・ゲート』にも出展されている。



「縦」から「横」へ、そして「謎」へ

 フートが「縦」だとすれば、ジャン=ユベール・マルタンは「横」である。つまり、「同時代性と共時性」を「歴史と通時性」よりも重んじている。

 もちろんこれは単純化した話であって、マルタンが歴史を軽視しているのでないことはいうまでもない。1944年生まれというから、フートより8歳年下。父親はストラスブール歴史博物館のキュレーターで、自身はソルボンヌでアート史を学んだ。1968年、五月革命の年に卒業。ルーヴル美術館に短期間在籍した後、国立近代美術館でキュレーターとして働き始める。1977年にポンピドゥー・センターが開館すると、同館は同センター内に移転するが、マルタンは1982年まで勤務を続け、その後、クンストハレ・ベルンの館長に抜擢される。1987年、古巣の国立近代美術館に館長として迎えられる。『大地の魔術師』展が開催されたのは、その2年後のことだった。

 ヨーロッパのアート界の保守本流でキャリアを重ね、40代で大陸における最も重要な近現代美術館のヘッドを務め、その後も様々な美術館の館長や国際展のディレクターなどの要職を歴任することになる人間が、歴史を軽んじながら仕事ができるはずもない。『大地の魔術師』も、西洋アート史の否定が目的ではなく、複数のアート史の存在を西洋に知らしめ、認知を迫るものだった。とはいえ『大地の魔術師』は、西洋中心のアート史観を根底から覆すような大胆にして革新的な企画である。西洋と非西洋の作品を混在させ、つまりはアートを「横」に広げた発想は、それまでにはないものだった。

 マルタンが非西洋の作品を西洋の作品と並べたことに、フートは批判的だったろうか。ドクメンタIXのためのアフリカ行きは、『大地の魔術師』展のコンセプトを知った上でのことであり、結果的に「手ぶら」で帰ってきたことはすでに書いた。少なくとも、マルチカルチュラリズムを無批判的に導入することは、この時期のフートにはできなかったのだ。直接的な批判の言葉は見つからなかったが、ライバル心があったことは推測できる。

 しかし、これも推測だが、2人の偉大なキュレーターの間には、ライバル心とともに、同志としての尊敬の念が相互にあったのではないか。1980年代後半から1990年代前半にかけて世界は激動した。西洋中心の世界観は大きく揺さぶられ、それはアートにおいても同様だった。そのときに専門家として取るべき2つの態度を、フートとマルタンはともに勇気と誠意とある種の責任感を持って選択した。フートは、現代アートがいまここに至るまでの道筋を論理的に振り返ることによって。マルタンは、それまで西洋が無視してきた他者のアートを紹介することによって。2人の試みによって、現代アートは縦横2方向に健全に拡張され、今後たどるべき道が見えてきたのだと思う。

 21世紀にかけて、マルチカルチュラリズムはアートの正史に加えられた。このことに関して『大地の魔術師』が果たした役割は計り知れないほど大きい。ただし、そうはいっても、西洋はいまだにメインストリームの位置を確保しているように見える。自らが主体として非西洋アートを認知することによって、西洋は逆説的にアート史の正統であると保証されうる(あるいは、自ら保証しうる)からだ。子を子として認知した親が、その行為によって親権を獲得するように。中心に位置する権力が、周縁を自らの一部と認めることによって「帝国」の地位を確保するように。現状のアートワールドは、いまのところ、自らを「親」や「帝国の中心」と見なしているようにも見受けられる。

 それはともあれ、フートが死の直前にキュレーションした『ミドル・ゲート』は、24年前の『オープン・マインド』とは異なっていた。マルタンが『アルテンポ』で協働したアンティークディーラー、アクセル・ヴァーヴールトも展示に協力し、魔術や宗教と関わる神話的な作品、西洋が認定した近現代の「ジ・アート」、それにアウトサイダーアートを精選・展示。作品は、ジャンルごとに分けられるのではなく、主題や視覚的要素の近縁性にしたがって並べられた。「精神医学」「アカデミー」「アート」といった区分はなく、それどころかキャプションなどの説明すらほとんどなかった。フート自身によれば、以下のような理由による(イアン・マンデルによる前掲記事)。

「作品はこんなふうに一緒に展示したから、アウトサイダーのアートと有名な作家のアートの違いを見出すのは難しい。こんな風にしたのは、人々が世界を見る方法を広げるためだ。最初はある種の混沌に見えるだろうが、次には謎が現れる」

 これまでの流れが体得されれば、「謎」を解く楽しみが待っている。フートは、20余年の歳月を経て「縦」への関心と理解が深まったと感じ、安心して「横」に手を伸ばしたのではないか。マルチカルチュラリズムの正史への組み込みにも、自分なりに納得したのだと思う。希代のキュレーターがヘント市内の病院で亡くなったのは、『ミドル・ゲート』が閉幕して1ヶ月余り後のことだった。

小崎哲哉

最終更新:9/8(木) 15:30

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