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菊地成孔の『暗殺』評:「日韓併合時代」を舞台にした、しかし政治色皆無の娯楽大作

リアルサウンド 9/10(土) 10:01配信

■「日韓併合時代の京城を描いた韓国映画」と「真珠湾攻撃を描いたアメリカ映画」、あなたはどちらを見たいだろうか?

 我々は、「日本人が悪役。である外国映画」を、わずかな数であるが、熱狂的に楽しんで観た、という記憶を持っている。かのブルース・リー・クラシックスのひとつに数えられる『ドラゴン怒りの鉄拳』(72年)は、その輝かしい代表であろう。

 ある世代の、あるセクトの人々、つまり「この映画を観に行った全ての人々」は、悪の柔道家である日本人たちとの闘いの果て、最後にブルース・リーが、卑劣な日本人警官たちによってハチの巣に射殺され(る直前で映画は終劇をむかえるが)ようとも、複雑さのフの字も感じることなく、雑味皆無純度100%に近い興奮で観賞し終えたはずだ。

 興奮度はかなり落ちる、というより「比べちゃいけないよ」という作品だろうが、『ローラーボール』(75年)のオリジナル作(ジェームズ・カーン主演)も、記憶の片隅ぐらいにはあるかもしれない。カーンの所属チームが最後に戦う最強の敵は東京チームである。

 類例はまだまだあるだろうが、高い確率でこの2作と概ね同一のジャンルである。エンタメのアクション作であること。そして<太平洋戦争映画>ではないこと。前者はいかなる設定の上でもリアルな政治性の介入を抑え、後者は(日本にとって負け戦であるがゆえに)最悪最強の悪役たりえる強度を抑える、という効果がある。

 「アナロジーとしての戦争」とも言える企業戦争、つまり、日本の企業人が悪役(もしくは「ガツンとやられる役」。一例に『オーシャンズ11』(01年))として出てくる映画もまた、実際の戦争を描いた映画と等しく、我々に若干の雑味を残し、どんなに痛快なアクション大作でも、純度100%の興奮は与えてくれない。ある時期の<対米(のみならないが、主に)企業戦争>は日本にとって負け戦ではないからだ。

■日本=最強の最悪である条件、それは映画史に記号化してもらえない

 両者は絶妙な力学で雑味を消す。しかし重要なのはやはり前者であろう。積極的かつ最強の雑味消しは、「痛快なアクションそのもの」に他ならない。アクションの必然性をセットする脚本も重要ではあるが絶対ではない。「アクション」によってのみ駆動する映画というメディアに於いて、その重要性と効果を否定する映画ファン、というのは一種の語義矛盾ですらある。

 何せ『ドラゴン怒りの鉄拳』は、太平洋戦争映画ではないが、さらに悪い。もし日本人が他国の映画の中で憎むべき悪役として描かれる場合、前述の通り、<終戦時清算>がどれほど有効かという考察はさておいて、最終的には日本人の負け戦となった太平洋戦争を描かれるよりも、日本人がまだ勝ち組だった(日韓併合も含む)、侵略と植民地政策の、いわゆる「ブイブイ言わせていた時代」を、他ならぬ被侵略国側に描かれる方が遥かに強烈で、我々を委縮させる(近作ではアン・リーの『ラスト、コーション』(07年)に於ける日本軍の軍人がそれに当たるが、あの作品は侵略者としての日本人を糾弾するのが目的の映画では無かったので、わずかな雑味に留まる。とはいえ、だからこその後を引く雑味とも言える)。

 日帝時代を舞台にした『ドラゴン怒りの鉄拳』の凄まじさは、ブルース・リーの肉体と、その奇跡的なムーヴによって、最アウェイとも言える状況設定がもたらす、雑味を超えた<食えなさ(これは、他のアジア諸国民にとっては、普通の旨味になる)>を文字通り力業で粉砕してしまい、我々日本の観客のナショナリズムを熱殺菌のように無化させた事だと言える。

 微妙な考察になるのでここでは深入りしないが、これは『インディ・ジョーンズ』シリーズ(81年~)や、近作だと『イングロリアス・バスターズ』(09年)に於ける、<記号化=脱臭化=キャラクター化されたナチス・ドイツ>という存在が、なぜ映画史上に生まれたか?という問いと直結しているのは言うまでもない。『ドラゴン怒りの鉄拳』、そして本作が、あと10本づつ製作されていれば、<記号化=脱臭化=キャラクター化されたナチス・ヤーパン=日帝>が、映画史上に生まれ、安全な悪役として大活躍していくのだろうか?

 本作『暗殺』は、当の大韓民国でさえ、恐らく初めての「日韓併合時代を描いたアクションエンターテインメント巨編」であり、最初に書いてしまえば、ぶっちゃけ大傑作である。そして何よりも驚くべきことは、雑味が一切ないことに尽きる。

 アクションは、一人の超人的な天才の肉体そのものによって、という強度ではない代わりに、現代的なアイデアを大いに盛り込み、最高水準の技術によって構造化されており、雑味消しは完璧だ。それは何かもう、そもそも最初から「消すべき雑味など無かった」かのように雑味がしない。この新しさは、どこから来るものなのだろうか?

■その前に、「八紘一宇? 日韓併合? え? 何なのそれ」という方々へ。あなた方が幸福なのか不幸なのか、残念ながら筆者には解りかねるが

 K-POPも含む、韓流文化全般を無邪気に楽しんでいる人々の多くが、上記の様な人々である事は想像に難くない。そして、「何で韓国をあんなに嫌う人々がいるんだろう。なんかどうやら、昔、日本は韓国に恨まれるようなことをしたみたいだけど」ぐらいの、牧歌も牧歌、牧場の歌の歌詞の極みのようなものを口ずさんでいる人々に、今から何千文字か使って、「北東アジアの侵略国としての日本と、東南アジアの侵略国としての日本が、太平洋戦争の敗戦国である日本と一本の線でつながっている」という解説を書くことは、多少面倒な作業ではある程度で、成功不可能なミッションではない。

 しかし、今回に限って言えば、一番確実なのは「映画館に行ったら、まずパンフを買い、9~10ページ見開きにある、韓国人作家カン・ヒボンによる、日韓併合と朝鮮半島の独立並びに、統一の失敗に関する、わずか2000文字にも至らない短文を読むこと」であろう。

 超池上彰級のこの見事なまとめを、まずさっとそれを読んでから映画を見れば、日韓関係自体に何の雑味も感じていない、最高の牧歌の歌い手にも100%完全な予備知識がインストールされる、多少面倒だが先ずパンフを買って読んでから観賞すれば良いのである。特別、日韓関係の歴史に強いわけでもない筆者も、これには感心した。というよりも、逆説的に、「日本で本作を公開する限り、パンフにこの文章が載ることがマスト」であったことは間違いない。

■さて、それを読んだ上でも、再び、本作では、驚くべきことに

 雑味どころか、やりようによっては激痛の原因にもなりうる政治的背景を、「リアルな政治性を排したアクションエンターテインメントである」という属性の更に一段階前から、完全な無臭化に成功しているかのようである。

 クライマックス、激烈な銃撃戦と、後述するサム・ペキンパー&ジョン・ウー・リスぺクタブルな復讐劇の舞台は、何と(もちろん実在した)三越百貨店京城店であるというのに。劇中、最も憎悪を煽る、最悪役こそ韓国人であるが、次点にいる通常悪役が、朝鮮総督府司令官、川口守の息子、川口大尉だというのに。

 「日帝時代」を描くのに、リアルな政治性を排していること自体が驚くべきことだが、やはりここでは「(高度に計算された)アクション」の力、そして何らかの時代的な斬新さ(それは、単に「もう、そんな時代じゃないっすよ」といった、元も子もないような事なのかもしれないが)が、すべてに勝る。

 しかし、である。ここまで書いたとして、そしてそれが読まれたとしてさえ、果たして、日本人の誰がこれを見るだろうか? 厳密には、「見たがる」だろうか? 答えはトートロジーの域に達している、それは「韓国映画やテレビドラマのペン(ファン)」である。現在のマーケットも蛸壺も、未知の合金のように盤石で硬い。筆者の使命は、合金で出来た蛸壺を横倒しにすることである。割れることはないだろう。しかし横倒しにぐらいは出来る。

 日本は過去、韓国(だけではないが)にとても酷いことをした過去があり、水に流しても流しても流してもらえないどころか、恨まれ、謝罪を求められ続けている。アイドルは言う。音楽に国境なんて関係ない。あってもそれは、誰もが忘れ去った遠い昔のこと、日本人のペンの皆さんサランヘヨ。

 しかし本作は、敢えて、とても酷いことが上手く行っている頃を、21世紀水準の高い時代考証力で忠実に再現した上で、日本人観客全員を、韓国人主人公に無理なく移入させる。韓国初の日帝時代を描いたエンタメ作品は、我が国で公開されることによって、<二重の意味で韓国初の作品><第二の『ドラゴン怒りの鉄拳』>になる、ともいえるだろう。しかし何故そんなアクロバットが綺麗に決まったのだろうか。

■監督はこう発言している

 韓国エンターテインメントのモダン化(=ハリウッド化)を爆発的に推進した『10人の泥棒たち』(12年)の監督&脚本であるチェ・ドンフンは、この作品の成功により、18億円の製作費を手にし、本作の制作に着手した。「何を一番伝えたかったか?」という、余りにもストレートな質問に対し、余りにもストレートに回答している。

「今の韓国の若者たちは1930年代だけではなく、日帝時代についてあまりよく分かっていないようです。私もそうでした。その時代の話を描きたかったので、本をたくさん読んで勉強しました。独立軍たちの写真を見ながら(中略)彼らはどのように行き、彼らの勇気は果たしてどこから来ているのだろうか?という至極純粋な質問からこの映画を始めることになりました」

 発言の後半はロマンティーク/クリエイティヴであり、重要なのは前半である。園よりも、三池よりも、庵野よりも、三谷よりも、山崎よりも10歳近く年下である(45歳)オーヴァーグラウンダーの国民的ヒットメーカー(『10人の泥棒たち』は公開当時、韓国歴代観客動員数のナンバーワンになった。因みに現在の1位は『インサイダーズ/内部者たち』(16年))は、「今の若い韓国人」と「同じように」、「日帝時代について何も知らなかった」のである。

 この赤裸々な発言は、本作の監督(&脚本)たればこそ、非常に示唆に富んでいる。本作は「もう、そんな時代(いつまでも韓国が日本を恨んでいる時代)じゃない」世代が、どれほど「そんな時代じゃない」のかを、そして、そんな世代のオーヴァーグラウンダーが、素材として「そんな時代」の始まりを描こうとした時の引き裂かれ具合を、赤裸々に見せている、と言えるだろう。

■ストーリーは例によってチラ出ししか出来ないが(もう公開後だが、物語の性質上、これから見る観客へのネタバレを禁ずるべきなので)

 毎度ながら、恐るべき緻密さでありながら、さっと楽に書いたようなスマートな味わいの脚本は、前述の通り、劇中の最悪役を韓国人、しかも、元々は韓国臨時政府の警務隊長でありながら、日帝の脅しに負けて寝返るヨム・ソクチン(イ・ジョンジェ演。『10人の泥棒たち』では、間抜けだが腹黒い、木偶の坊的なキャラクターだった彼は、本作では20代から60代までを見事に演じ、堂々たる主演を張る)に置く。ヒロインである暗殺団の腕利きスナイパー、アン・オギュン(チョン・ジヒョン演。『10人の泥棒たち』では、世界中の誰しもが成し遂げようとして成し遂げられなかった「リアル峰不二子/クラシックスタイルのボンドガール/しかもクールでなくコミカル」という大仕事を成し遂げ、今や北東アジアでは知らない者はいない、総てが上手くいった藤原紀香である。中国や韓国、香港に旅行に行った人は、何かの広告によって必ずこの女優の顔を見ている。本作では一転し、近眼の名スナイパーと、親日派の暗殺対象の娘、満子との双子/一人二役を寡黙に演じ、複雑な人間関係が渦巻く本作で、イ・ジョンジェとの双頭主演を張る)を見出し、物語の中枢に着任させながら、ほぼ同時に裏切る。ダース・ベイダーである。

 これまた前述の通り、日本人は次点にいる通常悪役となる。朝鮮総督府司令官、川口守と、その息子、川口大尉等、あらゆる日本人は、立場上「もう、そこにいるだけで悪人」な訳で、敢えて憎々しげに描くベタな必然性を、監督はスマートに避けている。

 この基礎設定、よしんば本作に僅かなれども政治性があったとしても、それは日帝による支配という前提よりも、朝鮮人による独立運動が一枚岩になれず、現在に至っても、分断と停戦という状況を生んでいるという、「その後」にフォーカスされている。とはいえ再び、それはどう見てもリアルな政治性としては僅かながらのものであって、映画がアクションそのものである事、登場人物は魅力的なキャラクターという傀儡である事、しかし考証、特に画面に関しては極度なまでにリアルに忠実である事(本作の画面に最も近親性がある映画は間違いなく『ALWAYS 三丁目の夕日』(05年)である。VSXの技術、というか端的に使用ソフトが同じなのであろう)、ジョン・ウーの香港ノワールのブロウアップ版とも言うべき、クライマックス「三越京城店」での結婚式における大虐殺の夢のような美しさ、さらにその源流であるサム・ペキンパーの、有名な「死のダンス」「荒野」の(映画史的な生真面目さとも言える)登場、『キック・アス』(10年)『キングスマン』(14年)等々に顕著な「愛すべきキャラクターの、まさかの惨殺」という歌舞伎のような派手で薄っぺらなショック、等々、筆者は「今っぽいな。とにかく」という、白痴ギリギリの言葉しか思いつかない。

 漫画原作の比率が非常に高まっている日本映画界に、韓国映画界は全く別の立場から追従していると言える。韓国の「ウエブ漫画」の発達は、20年後にはコモンセンスとして定着しているかも知れない。本作はオリジナル脚本だが、「これはウエブ漫画が原作で」と言われても違和感は全くない。

■そして、最後にして、最初の問題はここに尽きる

 ここまで書いておいて、ミステリー小説のオチのようになっては、映画批評としては些かオーヴァーアクトかも知れない。しかし、この問題こそが、本作のみならず、映画というメディアが侵略と独立という歴史的な事実を、エンタメとして描くときの構造的な基底部として、総ての作品を律しているのである。

 本作は、韓国人役、日本人役、中国人役を、総て韓国人俳優が演じ、物語の都合上、日本語と韓国語と中国語が入り乱れる。そしてそれは「ネイティヴの韓国語/日本語/中国語」「片言の韓国語/日本語/中国語」が入り乱れることを意味している。

 ここまで読んで、未見の方々に質問したい。やりようによっては、前述6パターンの言語コントロールによってのみ、物語を駆動させることも可能なほどの設定の中、本作はこの問題をどう扱っているのか?

 最初と別の意味で驚くべきことに、本作で「ネイティヴの日本語」は一切発音されない。劇中発音される日本語は、日本語が話せる韓国人のものも、韓国語が話せない日本人のものも、韓国語が話せる日本人のものも、とにかく一律片言(もう、笑ってしまうような)であって、それはまるで「ドラゴン怒りの鉄拳リスペクト」と言っても過言ではない(因みに、冒頭に挙げた『ローラーボール』の東京軍の応援は「ぎんばれ! ときよー!」としか聞き取れない片言の大合唱である)。

 観客に問いを残してはいけないというエンターテインメントのルールを、本作はこうして、とんでもない形で破る。いくら日帝時代が舞台だからといって、仕事として協力する日本人がいない筈がない。監督の個性として、何かを雑にしてしまっている筈はない。何せ、ネイティヴ × 片言の対比は、1930年代設定の、あらゆる国のあらゆる映画のキーポイントになる筈のファクターである。

 脚本の現代性、ちょっとしたパロディのくすぐり、「萌え」のコントロール、VSFとセットの完璧さ、といった、全方向が新世代的である本作が、言語のみ過去志向(なのかどうなのかさえ推測できない)であるという事実は、卓外とはいえ政治性に包含されるのか否か? アートに残される謎よりも、エンタメに残される謎のがはるかに深い。「日韓の片言問題」は、何故、あらゆるエンターテインメント業界の中でも据え置きのままなのだろうか? これは「侵略と片言」という、さらに数段根が深い問題と、一見似ているが違う。『戦場のメリークリスマス』(83年)や『トラ・トラ・トラ!』(70年)や『SAYURI』(05年)『GODZILLA ゴジラ』(米版/14年)の事を考えても、答えは出ない。はっきりしている事は『戦場のメリークリスマス』『トラ・トラ・トラ!』『GODZILLA ゴジラ』の面白さと、『暗殺』の面白さが、比べようがないほど違う。という事だけである。

菊地成孔

最終更新:9/10(土) 10:01

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